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丸根砦のちょこっと解説~桶狭間の戦いでの激戦地

丸根砦

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丸根砦とは

丸根砦(まるねとりで)は、愛知県名古屋市緑区大高町丸根にある平山城で、国史跡に指定されている。
最初の築城は戦国時代とされ、1552年、織田信秀が死去すると、うつけと言われていた織田信長が家督を継ぐ。
この時、丸根砦の北に位置する鳴海城山口教継が織田家から離反。

丸根砦

1553年4月17日、19歳の織田信長は約800の軍勢にて鳴海城を攻撃するも引き分けに終わった。
このあと、山口教継は調略を行い、大高城沓掛城を今川勢の支配と変えている。
そのため、大高城と今川氏の連絡を遮断するため、織田信長は丸根砦・鷲津砦を築いたのが始まりとされる。

丸根砦

1559年(1600年?)に、山口教継・山口教吉の親子が駿河に呼び出されて切腹すると、鳴海城には今川家の重臣・岡部元信が入った。
<注釈> 織田信長の策略で山口氏は切腹することになったとも。
更に織田信長は鳴海城を囲むように、丹下砦・中島砦・善照寺砦を築いた。


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1560年、桶狭間の戦いにおいては、織田勢の佐久間盛重・服部玄蕃ら400が丸根砦に籠城していた。
しかし、5月18日、桶狭間の戦いの前哨戦「丸根砦の戦い」となり、今川勢の松平元康・松平正親・松平重則・高力重正・石川家成・酒井忠次が大高城に兵糧を運び込んだあと、早々に丸根砦を攻撃し、佐久間盛重(佐久間大学)は討死したとされる。
翌5月19日早朝には、丸根砦と鷲津砦も陥落した。
この知らせを受けた今川義元は、19歳・松平元康(徳川家康)の武功を称え大高城に入るように命じている。
この数時間後、織田信長は善照寺砦から討って出て、今川義元を討ち取ったと言う事だ。

丸根砦

丸根砦は、現在、公園として整備されており、僅かだが遺構もあるようだ。

丸根砦

東海道新幹線からも見える小さな丘だが、今まで気にしたことがなかったので少し反省。(清洲城が見える場所はいつも意識している)
下記は丸根砦からの展望で大高城を望む。

丸根砦からの展望

交通アクセス

丸根砦への行き方・交通アクセスですが、JR大高駅から約900m、徒歩10分くらいの距離です。
駐車場はないため、大高緑地の第6駐車場を利用させて頂きました。
その駐車場から丸根砦の本丸部まで徒歩5分くらいです。


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丸根砦の場所などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイント致しております。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能です。(徒歩ナビとしても可能)

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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