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衣笠城の解説【衣笠城の戦い】浦島太郎と酒を飲み交わした?三浦義明

衣笠城

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衣笠城とは

衣笠城 (きぬがさ-じょう) は、神奈川県横須賀市衣笠町にある山城で、標高90m、比高60mほどになります。
大谷戸川と深山川に挟まれた丘陵が、衣笠城跡です。
最初の築城は、平安時代の康平年間(1058年~1064年)に、三浦大介義明の弟、津久井義行(津久井次郎義行)が築いたとされます。

衣笠城

三浦為通(みうら ためみち) は、平良文の後裔とされ、鎌倉党(鎌倉氏)の祖である平忠通の子です。
三浦為通(村岡為通)は、前九年合戦にて武功をあげ、源頼義から相模国三浦郷を与えられると、三浦氏を称しました。


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以後、三浦為継・三浦義継・三浦義明と、三浦氏4代の本拠地が、衣笠城となっています。
また、大矢部にある満昌寺に、三浦氏三代の廟所もあります。

三浦氏三代の廟所

衣笠城の本丸は、大善寺の裏山とされます。
大善寺の本堂左手から、登って行けました。

衣笠城

ただし、平安時代に築城されたと言う事や、前面が、谷戸地形になっていることからも、恐らく、平時の館(住まい)は、山の上ではなかったと存じます。
恐らくは、衣笠ICから、大善寺に繋がる道沿い・川沿いに、屋敷を構えていたと推測できます。

大善寺の坂下には、井戸もありますので、生活の場は、下にあったことでしょう。
下記が、水喰い井戸(馬喰い井戸)です。

水喰い井戸(馬喰い井戸)

本丸とされる場所は、詰の城だったのか?、のちに改良されたとみて良いでしょう。
本丸の高所の部分に、下記のような物見岩があります。
写真では、木陰になってしまい、よくわからないと思いますので、お詫びを申し上げる次第です。

物見岩・衣笠城

また、物見岩の脇からは、磁器の水差し、刀剣、経筒などが発掘されています。
と言う事は、古来より、磐座信仰があった可能性も捨てきれません。


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なお、衣笠城の支城としては、平作城大矢部城小矢部城、相模・佐原城怒田城、太田和城などが周辺にあります。
なお、平作城に関しては、土地も改変されていることから、場所がよくわかっておらず、推定地になっています。

いずれも、一族が、領地内に分かれて住むために、城を築いて行ったと考えられます。

衣笠城

衣笠城の本丸部分は、若干、斜面のようになっていますが、なかなか、広かったです。

三浦義明

三浦義明 (みうら-よしあき)は、平安時代末期の武将で、1092年、相模介・三浦義継の子として生まれました。
母は、笠間常宗の娘とされます。
<注釈>笠間押領使常宗の本拠は、横浜市栄区笠間で、中村党の一族。

三浦義明

三浦義明の正室は、秩父重綱の娘であり、三浦義明の長男は、相模・杉本城に入って杉本義宗と称し、和田氏の祖となっています。
次男・三浦義澄は、兄・杉本義宗の死後に、三浦氏の後継者となりました。
他には、大多和義久佐原義連、多々良義春、長井義季、杜重行と言った子もいるほか、源義朝の側室になった三浦義明の娘や、畠山重能の正室になった娘もおります。

衣笠城の戦い

1180年8月17日、源頼朝が伊豆にて挙兵すると、三浦義明は源頼朝に味方して、三浦義澄、和田義盛ら軍勢を派遣しました。
源頼朝も、三浦氏の軍事力が最大であったため、期待したようですが、天候が悪く、相模湾の横断を見合わせているうちに、平家側である大庭景親らの軍勢が伊豆へ先行してしまいます。
そのため、三浦一族は、8月22日、海路を諦めて、陸路、鎌倉・平塚を抜けて、小田原へ迫りました。
しかし、大雨で増水していたと酒匂川を渡れず、三浦勢は、8月23日の石橋山の戦いに間に合わず、暴風雨のなか、源頼朝らは敗走しました。
ただし、同じ三浦一族でも、相模・岡崎城岡崎義実らは、合流に成功しており、佐奈田与一義忠らが討死しています。
敗戦を知った三浦勢は、戻る途中、鎌倉の由比ヶ浜で、平家側だった畠山重忠の軍勢と遭遇し、和田義盛らが、小壺坂合戦・小坪の戦いとなっています。
その後、三浦勢は、衣笠城に戻りましたが、畠山重忠、河越重頼、江戸重長・金子氏他ら平家勢の大軍が、北の畠山城(陣場)に布陣しました。

三浦勢は、東木戸口に三浦義澄・佐原義連、西木戸口では和田義盛・金田頼次、中の陣には長江義景・大多和義久が守備し、本拠の衣笠城にて防戦し、衣笠城合戦となっています。
三浦義明は、下記の物見岩の上に立ち、指揮を執ったともされます。

衣笠城・物見岩

しかし、多勢に無勢でもあり、援軍も期待できない事から、8月26日の夜、衣笠城を捨てると、三浦一族は、久里浜などから、船で海上へ出て、源頼朝らが落ち延びた安房に向かう事を決しました。
当主の三浦義明は、すでに高齢だったため、衣笠城に残ったようで、畠山重忠らによって討たれています。

衣笠城の戦い

なお、三浦義明は、実際には、逃れようとしたともあり、何があっても、止まることがなかった愛馬が、ある一本の松の木の下で止まってしまい、動かなくなった言う伝承もあります。
そのため、三浦義明(三浦大介義明)は、これを天命と受け止め、松の木の下で、切腹して果てたともされます。
その松は腹切り松と呼ばれ、現在は場所を移し児童公園「腹切り松公園」の一角に保存されています。

腹切り松公園

これらの経緯から、三浦義澄ら一族を安房に逃すため、後方で防御していたと考えられ、最終的には、刀も折れ、矢も尽き、馬も疲れ果てたことから、独り三浦を守って戦死したと考えてよいでしょう。
三浦義明、享年89。


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三浦党は安房の鋸南に上陸したものと考えられ、2日遅れくらいで、源頼朝も合流しました。

源頼朝上陸地の考察「安房・房総」再起再生の人気スポット・鋸南・洲崎

その後、源頼朝は、安房で勢力を拡大させ、鎌倉に入ると、三浦一族は、旧領に戻っています。

吾妻鏡によると、1197年8月27日、源頼朝は三浦義明のために自ら建立した満昌寺に参拝し、御家人達に命じました。

満昌寺

「三浦義明は忠功無二の旧臣であり、今日墓前に立つと生前の姿を思い出す。御霊明神として敬うように。」
下記は、三浦義明の墓です。

三浦義明の墓

しかし、1213年には、三浦一族の和田義盛が北条氏に討たれます。
更に宝治元年(1247年)、最大勢力として鎌倉幕府で目立っていた三浦氏は、執権・北条時頼と宝治合戦となりました。
そして、三浦泰村ら三浦一族約500名は自刃して三浦氏は没落し、衣笠城も廃城になったようです。

衣笠城

宝治合戦では、矢部禅尼の子(佐原氏)である蘆名光盛、佐原経連、比田広盛、藤倉盛義、猪苗代経連、三浦盛時、会津時連らは、執権・北条時頼に味方しました。
そのため、矢部禅尼の子である佐原氏は生き残り、三浦盛時が相模・三浦氏の嫡流として残ったいます。
その他の子供らは、会津に移ったものと考えられ、その佐原氏の直系筋となる蘆名氏は、会津・黒川城にて、戦国大名へと大きく発展していきました。


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ともあれ、私自身、約10年越しくらいになるでしょうか?
ずっと訪問したかった衣笠城を、ようやく、訪れる事が出来ました。

衣笠城の見学所要時間は、大善寺の階段のところからで、約20分~30分程度になります。

浦島太郎と酒を飲み交わした?

上記にて少し触れましたが、衣笠城の戦いで討死した三浦義明ですが、なんと、あの「浦島太郎」と、酒を飲み交わしている絵「一魁随筆」(月岡芳年の作)があります。
全国各地に浦島太郎伝説がありますが、実際問題、横浜の伝承(神奈川浦島伝説)の信憑性は、一番、可能性があると存じます。
その横浜に伝わる浦島太郎の伝承から解説させて頂きますと、なんでも、浦島太郎の父は、浦島太夫と称し、三浦に住んでいたそうです。
<注釈> 相模国三浦を治めた、水の江浦島太夫(みずのえのうらしまだいゆう)ともある。


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ただし、横浜・観福壽寺(浦島寺)に伝わる話ですと、浦島太郎は、赴任先の丹波にて、亀を助けたことから478年に龍宮へ行き、347年後の825年に故郷に戻ったとあります。
しかし、すでに、父・母が亡くなっていたことから、両親の墓のそばに、お堂を建てて、乙姫から土産にもらっていた観音像を安置したと伝われます。
また、砂シミの為、玉手箱を開けてしまい、老人の姿になってしまったとされます。
ただし、1180年に死去した三浦義明とは年代が合いません。
でも、なんで、一魁随筆では、三浦義明と浦島太郎が、酒を飲み交わすシーンが、描かれたのか?、更に調べてみました。
すると「長寿」が関係したいたようです。
三浦義明は、前述したとおり、享年が89と、当時にしては大変な長寿です。
そのため、長生きした浦島太郎などと、三浦義明は同格として、江戸時代でも、話題となったようです。


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ちなみに、会津・黒川城の蘆名氏も、三浦一族です。
更に、ちなみに、戦国時代石田三成も、相模・石田館からの三浦一族になります。

交通アクセス

衣笠城への行き方ですが、電車・バスの場合、京急横須賀中央駅から、長井方面行バス「三崎口駅行」「長井行」他に乗車して所要20分、衣笠城址バス停下車して、坂道を登る事徒歩20分となります。
坂道は、熱海並みの急坂です。


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日本さくら名所100選に選ばれている、桜の名所「衣笠山公園」は、衣笠山城ではないため、注意が必要。
また、衣笠周辺は、ほんと、駐車場もないので、城攻めも、苦労致します。
今回は、平日に訪問し、大善寺の駐車場(約5台)を、15分だけ拝借致しました。

場所などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

衣笠には、満昌寺に三浦義明廟所(三浦義明の墓)、薬王寺旧跡には三浦義澄公墳墓、清雲寺には三浦氏三代の廟所腹切り松公園もありますので、お時間が許せば、セットでどうぞ。
クルマの場合には、コインパーキングなどに止めて、セットで周ることをお勧め致します。

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日本の城跡「場所」がわかるオリジナル地図


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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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