平作城とは
平作城(ひらさく-じょう)は、神奈川県横須賀市阿部倉にある平山城です。
古くは平佐古と言う地名だったようで、別名は平佐古城とも言います。
最初の築城は、平安時代末期、衣笠城に三浦義明がいた頃、平佐古為重(平佐古太郎為重)が築いたと伝わります。
三浦義明の弟で、相模・芦名城主である蘆名為清の孫が、平作城主・平佐古為重(ためしげ)とされます。
この芦名国海の子とされる平佐古為重ですが、1180年、伊豆にて源頼朝が挙兵した際に、石橋山の戦いにて、源頼朝の軍勢に加わっていました。
相模・岡崎城の岡崎義実や佐奈田与一義忠はともかく、三浦半島にいた三浦一族の大半は、石橋山の戦いに間に合っていません。
しかし、唯一と言って良いかも知れませんが、三浦氏の武将として、平佐古為重が石橋山にいたとなると、源頼朝と三浦党の連絡係も務めていた可能性があるでしょう。
衣笠城の戦いの際には、搦手口への攻撃に備え、平作城に、平佐古為重が守備しています。
畠山重忠らは、北の畠山城(陣城)から、搦手口を抜けて、衣笠城を攻撃していますので、平作城は、一番最初に、陥落した可能性があるでしょう。
平佐古為重のその後は、伝わっていません。
ただし、平佐古為重の館が、どこにあったのかは、不明です。
市営阿部倉アパートになっている団地が、1段高い場所にもなっており、城の腰とも呼ばれていることから、平作城の比定地とされているようです。
その団地の脇には、横須賀しょうぶ園が、整備されています。
もともと、沼地になっていたことでしょう。
この横須賀しょうぶ園の園内に、近くに、平作城があったことをうかがわせる、唯一の人工物「城の腰堰の石碑」がありました。
平作城の名称は、入っていませんが・・。
下記の地図にある「石碑」と言う場所に、ありましたので、ご参考まで。
ただし、どうも、城の腰とする阿部倉の団地付近は、城跡とは思えません。
近くに、川が無いんですよね。
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平安時代末期には、川を物資輸送手段・移動手段のひとつとして、使用します。
三浦党の城も、平作川と、その支流にて、ほとんどが、繋がっています。
増して、三浦水軍と言い、舟を操るのも得意な三浦氏です。
しかし、阿部倉の団地付近だと、その河川がないのです。
昔はあったのかも知れませんが・・。
今の地図で見る限りは、南にある、妙昭寺の麓付近が、屋敷を構えるのには、最適だと考えます。
谷戸にもなっていますしね。
よって、城の腰とされる部分は、詰の城の腰?と言う事になるかも知れません。
戦国時代には、小田原城の北条家・御馬廻衆として、岩本太郎左衛門が「九十六貫六百文 三浦 平佐久」とありますので、領していたようです。
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横須賀しょうぶ園は、菖蒲が咲く4月~6月の期間は、有料入場となります。
7月~3月は、門の開いているところから、入場無料で、出入りできます。
交通アクセス
平作城への行き方ですが、電車・バスの場合、JR横須賀線の衣笠駅から、京浜急行バス3番乗り場より「しょうぶ園循環」に乗車し、しょうぶ園バス停下車の徒歩2分と便利です。
駐車場は、有料駐車場になりますが、しょうぶ園の駐車場が利用できますので、助かります。
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駐車場などは、当方のオリジナル関東地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
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阿部倉の元住人です。
団地には元々城山という山がありました。昭和40年代その山を崩しふもとにあった田を埋めて平作小学校が建設されました。