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相模・曽我城 (曽我氏館)とは
相模・曽我城 (そがじょう) は、神奈川県小田原市曽我谷津にある丘城で、標高50m、比高20m、別名は曽我氏館となります。
曾我兄弟の仇討ちで知られる、曽我氏の本拠地となります。
平良文の子孫である平祐家(たいら の すけいえ)が、相模国足柄郡曾我庄(神奈川県小田原市)を領して「曾我大夫」と称したのが、曾我氏の始まりとなります。
曽我荘の周辺を領している、中村党も、良文流桓武平氏で、先祖が同じため、恐らくは、中村党の領地の一部であったと考えるのが、一番、しっくりきます。
ただし、曽我氏は、代々「佑」の字を使用していることから、中村党の曽我氏は断絶したとも推測でき、伊豆の工藤氏(伊東氏)から曾我祐家が養子が入ったのか?、領地が広いとは言えないため、中村一族の娘が伊東氏に嫁ぎ、その化粧領を曾我祐家が継いだなどで、伊東氏の血が濃い、曽我氏に推移したものと考えることもできると存じます。
曽我兄弟の姉が二宮御前と呼ばれていますが、曽我兄弟の仇討ちより前に、二宮朝忠に嫁いだ模様です。
その二宮氏も、中村党の一族でして、江戸時代後期の有名な二宮尊徳(二宮金次郎)も、同じ一族であると考えられます。
二宮尊徳の母は、曽我別所村に実家がある川久保よしであり、満江御前屋敷の近くに川久保家があったようです。(まぁ、時代は600年異なりますが・・。)
ちなみに、二宮尊徳の父は二宮利右衛門と言い、貧乏農家だったと伝わります。
しかし、そもそも一般の農民でしたら二宮姓など姓名がついてない訳です。
二宮利右衛門はヘタな下級武士と同じくらいの13石とあり、すなわち豪農だったのです。
よって、みすぼらしい服装の農民と言うイメージにはならないと推測致します。
ただし、借金が多かったことから貧乏暮らしだったと言う意味だと推測できますので、二宮尊徳も中村党の二宮氏が帰農していた状態の子孫と言えるでしょう。
話がそれてしまい、申し訳ありませんでした。
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さて、当時の曽我城の城域がどこまでだったのか?は、よくわかりませんが、現在の城前寺は、その名のとおり、城の前に位置するようでして大手だったと考えられます。
中心の本丸部分は、もっと中に入った物見塚古墳のあたりと考えられているため、物見塚古墳の脇辺りに中心の屋敷があったものと推測致します。
現在は、畑になっていますが、曾我氏館跡の碑、曽我一族郎党の供養御堂があります。
普通の地図では載っていない事が多いので、 当方のオリジナル地図のポイント地点をご参照賜りますと幸いです。
当方の地図は、スマホで表示すれば、カーナビ代わりにもなりますので、現地で、歩くナビとしてもご活用頂けます。
新編相模風土記稿では、曽我太郎祐信屋敷跡が(曽我谷津)村の南北、城前寺の後にありと記載されています。
ただし、この蘇我城 (曽我氏館)の中心部と考えられる場所は、平成元年実施の発掘調査で、遺構は確認できなかったそうです。
となると、広さから考えて、城前寺と、物見塚古墳の中間あたりに、館・屋敷があったのかも知れません。
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遺構は残っていませんが酒匂川を見下ろす高台であり、鎌倉時代の初期に館があった雰囲気は充分にあります。
なお、城前寺の本堂裏手には、高い土塁が一部残っていますが、その土塁、曾我祐信の墓、曾我兄弟の墓、満江御前の墓がある感じになっています。
ただ、その土塁が、墓を再整備した江戸時代なのか?、鎌倉時代からあったのか?、いつから存在したのかは、わからないと言った感じです。
ちなみに、物見塚古墳は、破壊されていますが、古墳時代後期のもののようです。
のち、1221年、承久の乱の際に、宇治川の戦いで、曽我祐重が武功をあげ、曽我氏は各地に領地を受けました。
その各地に設けた館も、曽我城と呼ばれることがあるため、混同しないよう注意が必要です。
この記事でご紹介申し上げているのは、本家本元、相模の曽我城となります。
鎌倉幕府滅亡後、曾我氏の宗家は、室町幕府の奉公衆にもなっており、関東管領の上杉氏にも仕えました。
1416年、犬懸・上杉禅秀(上杉氏憲)が、鎌倉公方・足利持氏と、山内・上杉憲基を追放して鎌倉を制圧した上杉禅秀の乱が起きます。
鎌倉大草紙によると、上杉禅秀に同心した者のなかに「伊豆には狩野介一類、相州には曽我・中村・土肥・土屋」がいたとあり、ほぼ中村党の一族が従ったようです。
しかし、今川範政・大森頼春・葛山氏の軍勢が「足柄の陣を攻落し、相州に打越て曽我・中村を責落し」たとあります。
1486年、相模・糟屋館にて、太田道灌を暗殺する際に、実行役となった曽我祐之(曽我兵庫助祐之)は、上杉定正に仕えた新参の家臣だったとされます。
その後、曽我兵庫は、武蔵・河越城に入り、上杉朝良の家宰になったようです。
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曽我兵庫の子・曽我佑重(曾我祐重)は、江戸城に入っています。
1493年、上杉定正が討死し、甥で養子の上杉朝良が家督を継いでいますが、その上杉定正が、生前に曽我祐重に書状を送っており「上杉朝良は武将としての嗜みがないので、曽我祐重から訓戒して欲しい」とあります。
曽我祐重は、1504年まで、江戸城にいた模様です。
1524年、北条氏綱が、江戸城を攻めた際には、上杉勢の曽我神四郎が先陣として、品川で待ち受けたとあります。
江戸城は、このとき陥落して、北条氏のものとなりました。
曽我城だったとは断言できませんが曾我信正がおり、1559年に、北条氏康に反旗を翻したため落城したともあります。
1559年6月16日、城に火を放ち、城主・曾我信正とともに360余人が自決したとも伝わります。
その供養になっているのが、曽我一族郎党の供養御堂と言う事らしいです。
御承知の通り、小田原城から曽我城は、目と鼻の先でして、当時、相模国から関東まで進出し、かなりの軍事力を有していた北条氏康に対して、相模のいち家臣が謀反を起こすのは、あまりにも無謀とも言え、とても考えにくいです。
なんのために、北条氏康を、裏切ったのでしょうか?
曾我兄弟の仇討ちと比べても、お粗末でして、ご先祖の曽我兄弟に、泥を塗るような行為にも感じます。
北条氏の歴史にも、曽我氏が謀反を起こしたとは記載がなく、この14代当主とされる曽我信正に関してはよくわかりません。
1561年、上杉謙信が小田原城を包囲した際に、曽我山にて戦闘がありました。
他には、1573年、足利義昭の槇島城籠城に従った曾我助乗などがいますが、奉公衆と考えられますので、相模にはいなかったようです。
のち、曽我兵庫助祐昌(そがひょうごのすけすけまさ)が、武蔵・忍城のり成田氏の家臣として300貫と見えます。
この曽我祐昌は、上尾の曽我殿屋敷を本拠にしたようで、1590年、石田三成が攻めた、忍城の戦いでは忍城にて籠城した模様です。
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織田信雄の家臣にも、曽我尚祐が見受けられます。
交通アクセス
相模・曽我城 (曽我氏館)への行き方ですが、JR御殿場線・下曽我駅から徒歩13分です。
クルマの場合、城前寺の広い参拝者駐車場がありますので、入口を当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
道路から駐車場には、下る坂になっていて、自動車のバンパー下を擦りそうに感じましたが、ギリギリ大丈夫でした。
心配な方は、城前寺の北側にも駐車場がありますので、そっちのほうが良いかも知れません。
なお、有名な曽我梅林がある地ですので、梅の季節は道路が渋滞します。
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近くには、五郎の沓石も歩ける範囲にあります。
もちろん、城前寺の本堂裏にある曽我兄弟の墓も、セットでどうぞ。
梅林の上(標高が高いほう)には、曾我祐信の墓がありますが、道路は狭いです。
少し離れたところに、満江御前屋敷跡(横山時重の娘)と、満江御前の墓があり駐車場もあるので車で移動しても良いですが、道は狭いです。
平地でしたら、相模・大友氏館が、そんなに遠くありません。
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