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相模・大友氏館とは【大友能直の解説】大友荘・和田義盛屋敷?

相模・大友氏館




相模・大友氏館

相模・大友氏館(相模・大友館)は、神奈川県小田原市東大友(おおども)にある平城・館跡です。
この相模・大友氏館跡の付近は、相模国大友郷であり、南にある金峯山・長善寺は、1202年に、大友能直(大友左近将監能直)が創建したと伝わります。
そのため、大友能直が領した相模国大友郷にある館跡の可能性が考えられるため、下記の通り検証してみました。





下記は、城跡にある圃場大成の碑です。
圃場(ほじょう)とは、農作物を栽培するための場所、すなわち水田や畑のことでして、大成(たいせい)は、成し遂げたと言う意味ですので、付近の水田の区画整備を行った際の記念碑と言えます。

圃場大成の碑

上記の石碑の裏側と申しましょうか?
土地の中ほどに入りますと、下記の墓石のようなものがありました。

相模・大友氏館

ただ、文字が判別できず、何が記載されているのか、不明です。
そんなに古くは感じないので、幕末か明治頃の石でしょうか?
他の情報からだと弁財天だとあります。





なお、地元の伝承によると、長善寺の北側に「和田屋敷」があったと言います。
この和田さんが、なぜか、鎌倉時代の和田義盛と言う話になっているため、この場所は、和田義盛の屋敷ともされているようです。
現地に赴きますと、確かに1mほどでしょうか?、周りの水田よりも、若干の微高地になっていますので、規模は大きくなくても、屋敷があってもおかしくない雰囲気です。
今は、建設業者?の資材置き場のように見受けられますが、あまり使われていないようです。

相模・大友氏館

ただ、和田義盛が、中村党や波多野氏の領地の中にも、領地があったとは、ちょっと考えにくいところがあります。
今でも、住所は、東大友・西大友ですしね。

波多野氏は、波多野荘が本領ですが、沼田郷・河村郷(河村館)・松田郷・大友郷などに一族を配していました。
酒匂川から箱根よりになる沼田郷(相模・沼田城付近)には、波多野遠義の6男・沼田家通が入っています。

江戸時代中期に、宇佐美八左衛門(恐らく、伊豆・宇佐美氏の子孫)が、大友にいて、建立した石碑に「和田屋敷家」と記載されています。
ただ、和田義盛とは明記されていないんですよね。
もちろん、和田義盛の領地ではなかったと、100%断言はできないのですが、和田氏の屋敷であったとしても、それが和田義盛と言うのは、困難があるように感じます。

戦国時代、秦野にも和田石見館(和田屋敷)がありまして、小田原城北条氏綱に仕えた和田兵庫や、和田石見などの和田氏がいます。
このように、秦野付近で和田氏も見られますので、もしかしたら、戦国時代の和田氏の一族が、大友に館を構えていた可能性もあるでしょう。





ちなみに、大友氏が創建した長善寺の中興開基としては、笠原越前守直忠と言う名が見られます。
この笠原越前守は、1557年に死去した、大曾根城主の笠原信為と推測できます。
笠原信為(笠原越前守信為)は、北条氏の命にて、鶴岡八幡宮を再建したり、横浜・小机の雲松院に、早雲寺殿(北条早雲)の御茶湯料として寄進したりしていますので、直接、大友荘を領してはいなかったものの、寺社奉行のような立場で、長善寺の再建を担当した可能性があります。

と言う事で、大友氏の舘が、相模・大友荘のどこにあったのか?は、定かではありません。
そのため、この場所が、相模・大友氏館跡とは断定できませんが、推定地のひとつには、なるのかなと存じます。





また、大友氏館(大友館)は、どうしても、大分の大友氏館が有名なため、相模の大友氏館に関する研究も、ほとんど進んでいないと言えます。
下記では、その相模・大友氏館の大友能直をご紹介申し上げます。

大友能直とは

大友能直(おおとも よしなお)は、平安時代末期の1172年1月3日に、近藤能成(古庄能成)の子として生まれました。
母は、利根局(大橋貞能の娘、波多野経家の養女)です。
古庄郷司の近藤氏(古庄氏)は、横山党の一族と考えられます。
ちなみに、父の弟に武藤頼平(横浜の師岡郷)がいたり、その武藤頼平の猶子が、少弐氏の祖となった武藤資頼がいます。
また、近藤氏の娘は、平清盛の4男・平知盛の妻にもなったとされますので、中央との繋がりもあったようです。
<注釈> 武藤資頼は平知盛に仕えた。

母の利根局は、相模国足柄上郡大友郷を領している、波多野一族の可能性が高いです。
この波多野経家の出身は、一部の情報にて、上野国利根荘だとありますが、大友の姓名からも、本貫はもちろん相模・大友荘(小田原市西大友・東大友)であるのが妥当でしょう。

相模・大友氏館

養父ともされる波多野経家は、相模・波多野氏5代・波多野遠義の子で、大友経家(大友四郎経家)とも言います。
そのため、利根局が、近藤能成(古庄能成)に嫁いだ際に、持参した化粧領が、大友郷だったようです。
そして、早くに父を亡くしたと考えられる大友能直は、母の大友郷に移住して、大友能直と称しました。

源頼朝鎌倉幕府を開くと、上野・利根荘を加増されたものと考えら、その利根荘には、大友経家の子・大友実秀が入ったようです。
そして、沼田・波多野氏の祖となったことから、大友能直の母も、あとになって利根局と呼ばれるようになったものと推測致します。
その大友実秀と、利根局は兄弟だったようですので、利根局が、波多野経家の娘であることと一致します。

大友能直は、父の姓名から近藤能直と呼ばれており、生まれた領地の名前からは古庄能直とも名のりました。
また、父・近藤能成が早くに亡くなったのか、大江広元の兄・中原親能の猶子となり、一時、中原能直とも称しています。





1188年、大友能直は17歳で元服してまもなく、左近将監となっています。
しかし、病気になっていて、相模・大友郷にいたようで、回復後、大倉御所に初めて出仕し、源頼朝にお礼の挨拶をしています。
鎌倉での大友氏館は、扇ガ谷・浄光明寺の近くにあったようです(私有地のため非公開)ので、出仕してからは、ほとんど、大友荘にはいなかったと考えられます。

源頼朝が、大友能直をかわいがっていたと言うのは、母・利根局が、若い頃、蛭ケ小島で侍女をしていたとする説もあり、ご落胤の可能性も指摘されています。
ただし、石橋山の戦いなどに協力した、伊豆(松崎?)の近藤国平(近藤七国平)の一族と言う事で、大事にされたものとも考えられます。
戦国時代の近藤氏と申しますと、津久井城主の近藤氏や、井伊直虎とも縁深い、近藤秀用などが見受けられます。

若き大友能直は、源頼朝の近習を務めて周囲を警護を担当しました。
1193年、曾我兄弟の仇討ちでは、曾我時致の襲撃を受けた源頼朝が、太刀を抜こうとしたところ、大友能直が止めて、源頼朝を守ったとあります。





大友能直の妻は、畠山重能の娘(風早禅尼深妙)ですが、妻は平氏の娘など、他にもいた可能性があります。
子は、たくさんいて、1195年生まれの大友親秀(大友親季)、詫摩能秀、大友時直、元吉有直、大友親直、大友禅能、大友朝直、一萬田時景、鷲尾秀直、志賀能郷、豊前能基、田原泰広、北条朝時の妻(北条義時の次男・名越朝時の妻)がいます。

その後、工藤一族の天野遠景の役職を変わったようで、1196年1月11日、豊前国と豊後国の守護兼鎮西奉行となり、下向すると、6月11日、豊後国速見郡浜脇浦より上陸しました。
ただし、中原親能または武藤資頼が鎮西奉行ともされ、中原親能から鎮西奉行を譲れたとともあります。
また、下向したのは、大友能直の宰臣・古庄重吉(古庄重能)とされるなど、よくわかっていません。

1202年、大友荘の相模・長善寺を、大友能直(大友左近将監能直)が創建し、開山は宝室宗珍と伝わります。
下記は相模・大友氏館から、長善寺がある集落を撮影したものです。

大友荘

ただし、ずっと九州にいた訳ではなく、鎌倉や京都での活動も見られるため、鎌倉幕府の命にて鎌倉だけに留まることなく行動していたようです。
1223年11月27日、所領・所職を妻子に譲り、大友能直は京都で死去。享年53。

弟・田村仲教の子孫は、戦国時代の結城四天王で、下館城主の水谷勝俊を輩出したとされます。

なお、大友能直の死後は、妻・畠山重能の娘(尼深妙)が、嫡男や庶子などに、所領を配分したともあります。

1240年4月6日の尼深妙惣配分狀(志賀文書)では「大和太郎兵衛尉分 豊後国大野庄内上村半分地頭職 在別注文」とあります。
畠山重能の娘(尼深妙)は、亡夫・大友能直から譲与された大野庄地頭職などを子息に配分したと言う事でしょう。





1262年の記述として「大ともに、やしき一所つつ給ハリて」とあるようでして、子供らが京などから鎌倉を往復する際の宿泊地のような役割を持たせたようです。
そして、1274年からの元寇を契機とし、大友氏の多くは、豊後に移り、九州を守る役割を担いました。

以上ですが、相模・大友氏からは立花氏、戸次氏、田原氏、志賀氏、臼杵氏など、数多くの戦国武将も輩出しましたので、名門と言えるでしょう。
また、伊東氏、真田氏、毛利氏、小早川氏、吉川氏、長尾氏(上杉氏)、山内一豊の山内氏などは、相模国・伊豆国が先祖です。
石田三成の石田氏も、愛甲石田の石田館が先祖になります。

交通アクセス

相模・大友氏館(和田義盛屋敷)への交通アクセス・行き方ですが、下曽我駅から約1.2km、徒歩20分くらいの距離です。
駐車場はありませんが、1.8車線の道路は、駐車禁止ではありません。
ただし、農作業されているクルマを優先で、お願いできますと幸いです。
場所や案内板などはありませんので、正確な場所は、当方のオリジナル地図をご参照賜りますと幸いです。

すぐ隣は、曽我荘でして、曽我兄弟の仇討ちで知られる、曽我城(曽我氏館)もありますので、セットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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