神奈川県

河崎氏館 (武蔵・川崎城) 多摩川の崎にあった河崎基家の本拠地

河崎氏館

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河崎氏館(かわさきし-やかた)は、神奈川県川崎市川崎区宮本町にある館跡(城跡)で、平城になります。
川崎駅の北東に堀之内町があり、河崎氏の館があったものと推測できます。
最初の築城としては、平安時代の武将で、通称・小机六郎(河崎冠者)と言う河崎基家の居館跡との伝承があります。

河崎基家(かわさき-もといえ)は、桓武平氏秩父氏の一族で、秩父武綱の子とされ、武蔵・河崎荘、荏原郡、小机郷を領しました。
そして、武蔵・川崎城(河崎氏館)を築いた模様で、渋谷重家と2代に渡り住んだと推定されます。


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のち相模・早川城を築いたとも、武蔵・渋谷城に入ったともされる渋谷重国の祖父となります。
その頃には、小山田城小山田有重(小山田別当有重)の勢力が次第に河崎領に食い込んできたと推測されます。
河崎冠者基家の嫡男・河崎重家は、中山付近を領し、子は中山重実(中山次郎重実)と称しています。

河崎氏館

1159年、近江源氏佐々木秀義源義朝に味方するも、平治の乱で源氏が敗れます。
このとき、佐々木秀義は所領没収となり、伯母の夫(もしくは従兄)である藤原秀衡を頼って奥州・平泉へ向かいました。
その途中、相模の渋谷重国が招待すると、その武勇に感服して、佐々木秀義の一行を渋谷庄に引き留めました。

河崎氏館

佐々木秀義は、渋谷重国の娘(中山為重の娘とも?)は佐々木左衛門尉信綱の妻)を娶り、約20年間も渋谷氏の世話を受けた言います。
この時、佐々木秀義に与えられたのが、武蔵・川崎城ともされます。
そして、佐々木秀義の子である佐々木定綱と、佐々木盛綱らは、伊豆に流罪となっていた源頼朝に仕えるようになりました。

河崎氏館

1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵すると、平家の有力武将である大庭城主の大庭景親から、源頼朝討伐の密事を聞き、佐々木秀義は子の佐々木定綱を通じて、源頼朝に危急を知らました。
このように、源頼朝の挙兵に協力した功績で、本領が戻されて近江・佐々木荘へ戻ったとされます。

一方、渋谷重国の子・渋谷高重は、横山党の横山時広(横山権守時広)の娘と結婚しており、1213年の和田合戦にも参じています。

河崎氏館

戦国時代には、小田原城の北条氏の家臣として、佐々木一族とされる間宮信盛が、相模衆十四家の筆頭となり、宗三寺周辺(相模・川崎城、堀之内城、間宮氏館)を治めていたようです。
当時の川崎城のすぐ西には東海道が通っており、館の東側は、東京湾になっていたものと推測されます。
間宮信盛、間宮康重と2代続いたようですが、相模・間宮氏と言うと、北条綱成の玉縄衆に属して相模・笹下城を本拠とした間宮信元・間宮康俊、間宮綱信などがいますので、その一族と考えて良いでしょう。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めで、間宮一族は箱根峠の中山城を守備して、間宮康俊が討死しています。

河崎氏館

間宮康重の子・間宮盛重は、徳川家の旗本となり、江戸幕府の大判役を務めており、宗三寺に寄進などしたようです。
なお、筑波に移った間宮氏からは、のちに間宮林蔵を輩出しています。

河崎氏の館跡とされる史跡としては、ご紹介してきた写真にある稲毛神社となります。


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河崎氏館への交通アクセス・行き方ですが、川崎駅の地下街「アゼリア」の市役所通り方面「39番」から地上に出て450m、徒歩7分の距離です。
川崎市役所も近いので、クルマの場合には、付近のコインパーキング利用となります。

このあとは、潮田城へ向かいました。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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