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武蔵・小山田城の解説 自然豊かな多摩にある小山田氏発祥地

小山田城

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武蔵・小山田城とは

武蔵・小山田城(おやまだ-じょう)は、東京都町田市にある標高120m、比高90mの平山城で、現在、大泉寺がある周辺が小山田城です。
小山田有重・小山田行重の親子、そして、小山田高家と、三基の宝篋印塔も残されているようです。

大泉寺

参道も長くて、山側に真っすぐ繋がる、なだらかな坂となっています。

小山田氏館跡

大泉寺は「コ」の字型と申しましょうか、とのやと(殿谷戸形式)と言う周囲を馬蹄型の丘陵で囲まれていまして、側溝を水が絶えず流れていましたので、湧水もあるようです。

小山田城

この大泉寺前の細い道は、相模国から武蔵国への古道である「奥州古道」と推定されていますので、戦国時代鎌倉時代前からの街道の抑えとして機能したものと推測致します。
また「小野牧」など、多摩丘陵で見られる典型的な朝廷直轄の牧場(まきば)として活用されたと考えられる地でして、武士が現れる以前に、中央政権(大和政権)から馬の育成を管理する者=別当が派遣されてきて、八王子や多摩丘陵周辺をその一族が支配することになったと考えられます。
八王子・多摩の丘陵地帯は、池や湧水があり、そして丘で囲まれた地があることから、馬を育てるのに適した地だったのです。その為「馬場」などと言った地名も残されております。
 
小山田城

その役人である別当は世襲され、やがて外敵から土地を守るようになり、武士団がうまれ、坂東武士となる鎌倉武士に発展して行き、多摩丘陵は横山党一族が支配していました。

そこに、横浜の保土ヶ谷の地(榛ケ谷御厨)を治めていた秩父党である秩父有重が、1171年に小山田荘の別当に任命されて、現在の町田市下小山田町大泉寺の辺りに、小山田城を構えたとされます。
城と言うよりは、多少の防御を考慮した「館」と言った方が妥当だとは存じますが、この館があった場所が大泉寺の地と推定されています。
こうして鎌倉幕府有力御家人の小山田有重(小山田別当有重)が誕生しました。

1184年、一ノ谷の戦いでは、源義経ら坂東武者は急な崖を馬で駆け下りて、平家を奇襲しますが、元々、馬を飼っていた坂東武士ですから、馬を操る技術は超一流だったのも、うなづける話です。

小山田城

小山田有重の母は横山党の横山孝兼(小野孝兼)の娘とされ、近くの横山党とも姻戚関係にあり、関係は良好だったことでしょう。

小山田城

小山田城(館)の周囲には下記のように「堀」にしたとみられる跡もありますが、これだけ規模が大きいものは戦国時代に入ってからの改修かも知れません。

小山田城

ただ、背後の山との高低差もあまりない事から、戦国ともなるとすでに防御面は不安ですし、街道を抑えるような要所でもない事から、北条家が使ったとしても重要視はされなかったと考えます。

小山田城

しかし、大泉寺の大手付近には「郭」であったと考えられる跡が、いくつもあります。

小山田城

小山田城

なお、大泉寺の裏手に「本郭」などがありますが、お寺としては現在「立入禁止」の処置をとっています。
火災防止のためかと存じますが、今回は時間の都合もありましたが、ルールを尊重し山の部分への立ち入りは自粛させて頂きました。
ただし、きちんとお寺にお願いをすれば、見学の許可は得られるかと存じます。

小山田城からの眺め

上記写真は、大手付近の郭から撮影した展望ですが、高さも余りないため、監視にも不向きです。
しかし、まだ鉄砲が無い、鎌倉時代や南北朝時代にに敵を待ち構えるには充分でしょう。

この小山田有重の妻は一ノ御前(内ノ御前とも)呼ばれ、大泉寺より鶴見川の下流域となる小山田神社などで現在も祭られています。密かに蓮(はす)でも人々が訪れるところです。
そして、小山田有信の子供らが成長すると、小山田館から周辺に散って行き、小野路城小沢城枡形城などに別れ、有力御家人・梶原景時や、北条政子の妹などが小山田家に嫁ぎ、将軍・源頼朝とも親戚になりました。
その知行地は横浜・川崎・町田一帯と、かなり広大だったようでして、稲毛荘を治めた「稲毛」は、関東南部で100店舗以上展開するスーパー「いなげや」の名前の由来となっています。


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なお、甲斐国都留郡田原の地(山梨県都留市)の方まで横山党の勢力が伸びており、横山孝兼の娘が小山田氏に嫁いだ際に「持参」していたことから、郡内には末男・小山田行重が入りました。

源頼朝の死後は、権力を握ろうとした執権北条時政の策略で、梶原景時が静粛され、小山田氏の一族も、横浜の二俣川で殺害されます。
こうして、小山田の地は執権・北条家が握ったのですが、山梨の郡内(都留市)に逃れていた小山田家はその後も存続し、戦国時代になると武田信玄の家臣で最強と呼ばれた小山田信茂らを輩出するのです。
また、八王子周辺でも生き残った支族は、戦国時代に小田原・北条氏の家臣となり、北条氏照の傘下に加わっています。

下記の写真は、小山田城からちょっと上流域にある「鶴見川」の源流です。

鶴見川の源流

川崎・横浜にお住まいの方であれば、誰もがご存知のあの汚い鶴見川ですが、源流はとてもきれいな「湧水」が、かなりの水量で沸いている地となっています。

小山田城跡の地図は下記です。
ポイント地点は、駐車場付近を示してあります。
見学所要時間は15分。
許可を得て山の上も見るのであれば40分といったところでしょうか?

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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