神奈川県

早川城 渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華

早川城

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相模・早川城(はやかわ-じょう)は、神奈川県綾瀬市の市役所から西に500mほど行ったところに「城山公園」にある。
その城山公園一帯が、早川城跡で、標高は46m、比高は12mほどになる。
綾瀬市役所側の北東は、平らな台地であり、城の防衛には向かないため、比較的規模の大きい「空掘」を巡らしたようで、その空掘が残っている。反対の南西側は、早川の谷の段差約12mを天然の要害としている。

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地元では昔から「城山」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人・渋谷氏の城館との伝承はあったが、詳細な事はわからず、1889年から1994年の5年間、地元の綾瀬市教育委員会が発掘調査を行った。
その結果、早川台地頂部の平坦には約5000年前・縄文時代中期の竪穴式住居跡が2箇所発見され。勝坂式土器(相模原市)なども多数発見された。
もともと、早川流域(早川郷)では昔は湿地帯も多く、縄文時代の集落跡も多く発見されており、稲作を中心に昔から人々が暮らしてきた村が、荘園統治になり、武士団に発達したものと容易に推測できる。


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平安時代、この辺りは「渋谷荘」と呼ばれる荘園で、その統治者についた名前が渋谷氏で、鎌倉御家人の渋谷重国と言う名が見られる。
渋谷氏は桓武平氏の流れをくむ秩父党の一派で、関東に進出し、秩父氏からは小山田氏、川越氏、江戸氏などを輩出している。
秩父重綱の弟・秩父基家が多摩川河口の荏原郡河崎(川崎)を領して、河崎氏を名乗り、河崎重家、河崎重国と続いた。
1300年頃に記載さりた鎌倉幕府の史書「吾妻鏡」によれば、1159年の平治の乱で敗北した源氏の重臣・佐々木秀義(ささきひでよし)が奥州へと落ち延びる際、渋谷重国(しぶやしげくに)は、佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助・保護したという記載がある。
渋谷重国は、河崎重国と同一人物であり、1161年頃に、河崎から現在の綾瀬市西部を流れる目久尻川河畔に開けた相模・渋谷荘(高座郡渋谷村)の荘司になったと考えられ、この渋谷重国が最初に渋谷氏を名乗ったものと推測できる。
その後、源頼朝に臣従すると所領を安堵され、子の渋谷高重と共に鎌倉幕府の御家人となる。1184年正月の源義仲追討軍にも渋谷高重と共に参加した。
その渋谷重国の死後は次男であった、吉岡館主・渋谷高重(たかしげ)が渋谷家の家督を継いだ。
渋谷高重の妻は横山党・横山時広の娘。


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渋谷高重は、早川の地に入ると、早川次郎高重(早川高重)を名乗ったとされ、渋谷家の棟梁として渋谷一門を率いた。
しかし、鎌倉幕府内部の権力闘争である和田合戦(1213年5月)では和田氏に加担したが、渋谷高重は討死し、渋谷氏の勢力は一時衰退した。
長男・渋谷光重は渋谷上庄・美作河合郷などを相伝し、また渋谷一族で武蔵に移住した渋谷氏は谷盛七郷(渋谷、佐々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領有し、東京都渋谷区の「渋谷」の地名の発祥となり、武蔵・渋谷城を構えている。
それから約30年後の1247年の宝治合戦では、勝利した鎌倉幕府執権・北条氏側に加わり三浦泰村を討ち、渋谷氏は恩賞を受け、旧来の勢力を回復。
渋谷光重には6人の男子があったとされ、長男・渋谷重直は相模渋谷氏本領の相模国に留めたが、恩賞地である北薩摩を5分割し、祁答院・東郷・鶴田・入来院・高城の地頭職に次男・渋谷実重、三男・渋谷重保、四男渋谷重茂(渋谷重諸)、五男・渋谷定心、六男・渋谷重貞の兄弟を充て、1248年、関東から九州へと移住させた。(実重が東郷、重保が祁答院、重茂が鶴田、定心が入来院、重貞が高城の地頭職)

早川城

早川城(早川館)でも、引き続き渋谷氏の支配は続いた模様で、室町時代初頭まで渋谷氏の領地であったようだ。

早川城

下記の堀切にて、綾瀬の台地と早川城の先端部を分けてある。

早川城の堀切

早川城主郭部の中には高さ約2mの円形土盛が見られるが、物見塚だと考えられている。

早川城の物見塚

土壌堆積物の調査により、表土直下に宝永火山灰(1707年, 富士山の噴火)の火山灰が見られることから江戸時代初期よりも前に築かれていることが判明している。

早川城の物見塚

ちょっとした櫓を立てれば、展望台として物見櫓の役目を果たしていたのだろう。

早川城の本丸

戦国時代には小田原・北条氏が支配していたと考えられ、豊臣秀吉小田原攻めにより北条滅亡後には、徳川家康(徳川秀忠?)に仕えた石川重久(石川四郎兵衛重久)の陣屋になったとされている。
この石川重久は渋谷氏の末柄とも言われている。

早川城

早川城の東側は「谷戸」になっており、現在でも湧水があるようであった。

早川城の水源
 
薩摩国の渋谷氏分家は入来院氏、祁答院氏、東郷氏(当初は早川氏・車内氏)と改姓したが、東郷氏は戦国時代になると薩摩国大名・島津氏の重臣として仕えた。

早川城の堀切

明治以降では、大日本帝国・海軍元帥にまでなった東郷平八郎が出生。日露戦争で、参謀・秋山真之と共にロシアのバルチック艦隊を撃破する日本海海戦に勝利した司令官である。

東郷氏祖先発祥地碑

早川城址の物見塚には現在「東郷氏祖先発祥地碑」があるが、これは1932年(昭和7年)に、東郷氏のご子孫が記念碑を建立したものとなる。

さて、早川城がある城山公園へのアクセスだが、無料の駐車場入口の場所は下記のポイント地点となる。

見学所要時間は20分~30分ほど。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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