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下総・網戸城(阿知戸城)
下総・網戸城(あじど-じょう)は、千葉県旭市イにある平城。
別名は阿知戸城とも書く。
旭市の東漸寺も網戸城の城域とされ、主郭は東漸寺の西方の微高地にあったようだ。
しかし、現在は集落になっており、網戸城の規模や構造などはわからない。
古くは奈良時代の672年、壬申の乱の際に敗れた大友皇子が、妃・子女や臣下を伴って密かに房総に落ち延びたとする説がある。
具体的には大友皇子の妃・ 耳面刀自(みみもとじ)が、父・藤原鎌足にゆかりある鹿島神社を目指したともされる。
旭市には大塚原古墳(弘文天皇妃耳面刀自陵墓)や、従者の中臣英勝(なかとみのひでかつ)の墓も近くにあると言う。
このように、かつてあった椿海(椿の海)周辺は古くから領主もいたことだろう。
色々と調べてみると、網戸城の最初の築城としては、応永年間(1394年~1428年)に北条氏の家臣・大橋康忠(大橋山城守康忠)が築いたとある。
しかし、この説明には大いに疑問を感じる。
小田原城の北条氏の初代である伊勢宗瑞(北条早雲)の生年は1456年とされ、小田原城を占領したのですら1495年頃の話で年代が合わない。
まして、北条氏が房総に城を確保したのは、1545年頃に北条氏康が東京湾に近い上総・佐貫城(富津市)を短期間占領した程度で、到底、千葉県の東までは北条勢として直接は伸びていない。
ただし、北条氏家臣に大橋山城守なる武将がいることは裏付けがとれる。
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当方の記事「成宗城の解説~東京都杉並区にある城跡・大橋成宗」でも北条家の家臣である大橋氏に触れているが、八王子城主・北条氏照の配下に、横江忠兵衛と大橋山城守がいる。
この大橋氏の場合「20貫文 無連・高井堂」ともあるため、所領は東京の高井戸付近だったと考えられる。
1569年、武田信玄が小田原城を包囲した際には、世田谷城主の吉良氏朝が派遣した配下に、大橋山城守康忠、多目長宗(多目周防守長宗)、苅部泰則(苅部豐前守泰則)、加賀守滿頼の名がある。
この世田谷城・吉良家は北条氏に従っている。
しかし、吉良家に見える大橋山城守康忠が、下総・網戸城に出て来る大橋山城守康忠と、同一人物だとはもちろん決めつけできないが、少なくとも応永年間(1394年~1428年)の大橋氏としては確認が取れない。
なお、北側にある近くの下総・仲島城では、1324年に千葉氏の家臣・大須賀尾張守、大須賀八左衛門の名が見られる。
1560年前後から、安房里見氏の重臣・正木氏が上総・下総への侵攻を繰り返している。
戦国時代の1560年には、勝浦城の正木時忠がこの付近にある見広城の島田三河守義広・伊達城・仲島城の加瀬肥後守を攻撃している。
このとき網戸城(阿知戸城)が存在していれば、当然、正木氏の攻撃をうけたものと考えるが、史料に網戸城が攻撃されたとは見当たらないため、もしかしたら、網戸城は無かったのか?、使われなくなっていた可能性もあるだろう。
攻撃をしていなくても、上総・勝浦城の正木頼忠は、上総・坂田城、米ノ井城、下総・矢作城などまで奥へと攻撃・攻略していることから、下総・網戸城(阿知戸城)の付近も支配下に治めた可能性がある。
そのため、この頃からの下総・網戸城は、正木氏の勢力下にあったものと考えるのがスムーズか?
東漸寺
下総・網戸城(阿知戸城)の一角にあるとされるのが、真言宗智山派の東漸寺(とうぜんじ)で木曽家の菩提寺。
1582年、武田家滅亡時に木曽福島城の木曽義昌は織田信長に味方したため、木曽領を安堵されていた。
しかし、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、徳川家康が江戸城に移封となると、徳川家の家臣とみなされ木曽氏も関東に移った。
このとき、与えられた新しい領地が下総国阿知戸(千葉県旭市網戸)の1万石と言う事になる。
1591年3月、下総国三川村(旭市三川)の福蔵寺に入り、家臣らは東園寺に入ると、芦戸城(阿知戸)を修復したようだが、木曽10万石から1万石ではかなり厳しい減封と言え、家臣も不満だったことだろう。
下総・網戸城(阿知戸城)の南東と南西に重臣の屋敷を配置。
そして、1593年、木曾義昌が開基となり、木曾から呼び寄せた悦堂の開山によって創建したのが、旭市の東漸寺だ。
木曽義昌は、貧しかった阿知戸の城下町や道路の整備、湿地帯の灌漑工事、田畑の開拓事業を推進し名君ともうたわれたが、1595年3月17日に死去した。享年56。
家督は木曽義利が継いだが、叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いによって1600年頃に改易され浪人した。(流罪、追放とも?)
正室・真理姫(武田信玄の3女)は旧家臣らにより木曽・黒沢にて保護されたようで、1647年に死去している。享年98。
東漸寺の境内に、木曽義昌・真理姫供養塔がある。
木曽義昌・真理姫供養塔の場所は、東漸寺の本堂前に来たら右手に向うと、少しこんもりと木々が茂ったところにある。
東漸寺は山門前に大きな無料駐車場あり。
木曽義昌公史跡公園
遺言により木曽義昌は椿海に水葬されたと言い、木曽義昌公史跡公園に、木曽義昌公・水葬跡石塔があり「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれている。
ちなみに、椿海(つばきのうみ) 江戸時代初期まで存在した湖で、東西12km、南北6kmに渡る大きな湖だったようだ。
木曾氏が改易され幕府直轄地になると、江戸の人口増加に伴う食糧生産のためもあり、1670年頃から8万人を動員して干拓工事が行われた。
そのため、現在、湖を見ることはできないが、水葬跡に石塔が建てられたと言う事になる。
武田信玄が諏訪湖に水葬されたと言う伝承もあるが、戦国武将で確実に水葬されたと言う事例は木曾義昌だけかも知れない。
下記は木曽義昌の銅像。
旭市の名称である「旭」は、木曽義昌の先祖とされる木曽義仲(朝日将軍義仲)の「朝日」に由来するもとなる。。
木曽氏が善政を行ったからこそ、採用されたのであろう。
木曽義昌公史跡公園には3台ほどの駐車スペースあり。
交通アクセス
東漸寺まではJR総武本線「旭駅」から徒歩20分。
東漸寺に無料駐車場があり利用できるので駐車場の場所を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
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このあとは下総・桜井城に向った。
しかし、下総国は銚子のほうから下総・結城城のほうまでとても長いと感じる・・。
・真理姫の分かりやすい解説~武田信玄の3娘で木曾義昌の正室
・木曽福島城のちょこっと解説~木曽谷にそびえる詰城
・木曽義昌の解説 真理姫の不幸~武田を裏切った木曽家のその後
・木曽・上之段城の解説~武田に屈した木曽氏17代・木曾義康とは
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