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渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)の解説~相模・渋谷荘にある渋谷氏の舘跡?

渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)

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渋谷氏館(渋谷氏長後居)とは

渋谷氏長後居は、神奈川県藤沢市長後にある平城(丘城)で、渋谷氏館、渋谷家城とも呼ばれます。
現在ある長後天満宮の場所が、渋谷氏が長後に構えた館跡・居館跡であると伝わっているようです。
現地を訪れてみますと、確かに、南側は、引地川に面した台地の先端と言う感じでして、相模国にある平安時代末期の館跡と共通するニオイを感じます。
引地川では、大庭御厨や江ノ島へ、小舟で、行き来できた可能性もあるでしょう。

渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)

菅原道真を祀る長後・天満宮のご由緒ですと、秩父党・秩父武綱の2男・河崎基家から話が出てきます。
秩父党からは、秩父氏からは小山田氏、川越氏、江戸氏などを輩出していますが、河崎基家(小机六郎)の所領は、武蔵・河崎荘、荏原郡、小机郷です。
そして、川崎駅に近い、武蔵・河崎氏館が本拠だったようですが、平安時代の1115年に、河崎基家が、相模国渋谷荘長後村に館を構えたと言います。
相模・渋谷荘は、平安時代後期、秩父武綱(平武綱)が前九年の役で源頼義に従った際の恩賞として、与えられていたようです。


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そして、敷地内に、菅原公の廟を建立したそうです。
ただし、武蔵・川崎城(河崎氏館)には、渋谷重家と2代に渡って住んだと推定されています。
となると、もしかしたら、所領のひとつだった長後を、隠居の地にしたのかも知れません。
河崎冠者基家の嫡男・河崎重家は、中山付近を領し、子は中山重実(中山次郎重実)と称しています。
そして、中山重実の子・、河崎重国が、1161年頃に、河崎から現在の綾瀬市西部を流れる目久尻川河畔に開けた相模・渋谷荘(高座郡渋谷村)の荘司になったと考えられ、河崎重国は渋谷重国と称するようになりましたので、正式に渋谷荘を領したのでしょう。

渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)

なお、渋谷氏の舘とされる城跡・館跡は、相模・早川城、浜田歴史公園(浜田館・大谷館)、相模・大谷館、曾司館、恩馬館、相模・吉岡氏館(相模・吉岡館)など、いくつもあります。
宅地開発などで失われている、未発見の館跡もあるとみられ、また、どの館跡を、相模・渋谷氏の宗家が使っていたのか?など、不明瞭が多いです。
もちろん、本家が、屋敷を移したり、分家・庶子に与えたりすることもあったでしょう。
例えば、曾司館は、渋谷光重の5男・渋谷定心が領地を分け与えられたようで、曾司五郎定心と称したりしています。
渋谷重国の嫡男・渋谷光重の本拠とは断定できませんが、相模国渋谷庄内の浜田館(浜田歴史公園)が、渋谷氏の中心であった可能性があります。
渋谷重国の子・飯田家義は、飯田郷(横浜市泉区)を与えられて、富士塚城などに入ったと考えられます。
このように、具体的にわかっている館跡もありますが、誰が城主だったのか?、伝わっていないほうが、多いです。
他にも、相模・早川城は、戦国時代の北条氏によって、大改修もされており、昔から使用されていたのか?、わからなくなっています。
個人的には、渋谷氏としては、長年、本拠として固定した館・城と言うものは、なかった感じを受けています。


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それより、少し前の1159年、近江源氏佐々木秀義源義朝に味方するも、平治の乱で源氏が敗れます。
このとき、佐々木秀義は所領没収となり、伯母の夫(もしくは従兄)である藤原秀衡を頼って奥州・平泉へ向かいました。
その途中、相模の渋谷重国が宴席を設けると、その武勇に感服して、佐々木秀義の一行を渋谷庄に引き留めました。

佐々木秀義は、渋谷重国の娘(中山為重の娘とも?)を妻として、約20年間も渋谷氏の世話を受けた言います。
この時、佐々木秀義に、武蔵・川崎城を与えたともされますので、渋谷氏が宗家扱いになっていた模様です。
そして、佐々木秀義の子である佐々木定綱と、佐々木盛綱らは、伊豆に流罪となっていた源頼朝に仕えるようになりました。

1180年、源頼朝が伊豆にて挙兵すると、のち、渋谷重国と次男・渋谷高重も従っています。
相模・吉岡館に入り、吉岡太郎と称していた長男・渋谷光重は、既に亡くなっていたものと推測されます。
なお、渋谷高重は早川次郎と名乗ったともされますので、相模・早川城にいた時期があったとも考えられます。


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さて、平家の有力武将である大庭城主の大庭景親から、源頼朝討伐の密事を聞いた佐々木秀義は、子の佐々木定綱を通じて、源頼朝に危急を知らました。
このように、源頼朝の挙兵に協力した功績で、本領が戻されて近江・佐々木荘へ戻ったとされます。

なお、吾妻鏡によると、1181年、渋谷重国の次男・渋谷高重が、源頼朝から、所領・渋谷下郷(現神奈川県藤沢市長後付近)の年貢を免除されています。
この年貢免除の地が、長後ですので、渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)の主は、この時点では、渋谷高重であったとも?推測できます。

のち、渋谷重国が亡くなると、相模・吉岡館主になっていた渋谷高重が渋谷家の家督を継いだ模様です。
渋谷高重の妻は横山党・横山時広の娘となりますので、侍所別当を歴任した和田義盛や、梶原景時とも縁戚でした。
その渋谷高重は、和田義盛に味方して、1213年の和田合戦にも参じますが、渋谷高重、一族の中山重政、渋谷行重らは、討死しました。


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渋谷荘は、執権北条義時によって没収され、勲功として「女房・因幡局」に与えられています。
この因幡局なる女性に関しては、不詳ですが、大江広元は因幡前司でしたので、もしかしたら、因幡局は、大江氏の妻などであった可能性が、あるかもしれません。
その後、渋谷荘は、執権・北条氏の領地になったと推測できますので、因幡局は、北条氏の娘や妻であった可能性も考えらますが・・。

その後、渋谷光重が、渋谷氏の家督を継いでいましたが、その子・渋谷定心は、承久の乱・宝治合戦で、執権・北条氏に味方して、薩摩に加増を受けました。
そして、1248年、長男・渋谷重直(舟木重直)のみを相模に残し、他の子供は、薩摩の領地に下向させ、東郷(早川実重)、祁答院(吉岡重保)、鶴田(大谷重茂)、入来院(曽司定心)、高城(落合重定)を統治させました。
このように、姓名から相模の領地も伺え、薩摩・鶴田城に入った大谷重茂は、相模にいた頃は、相模・大谷館主であった可能性が高いです。
渋谷氏の本貫地は相模と言えますが、他の渋谷一族は、東京の渋谷駅の名称にもなっている、武蔵・渋谷郷でも、見受けられます。
薩摩の東郷氏からは、ロシア・バルチック艦隊に勝利した、連合艦隊司令長官・東郷平八郎を輩出しました。


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江戸時代に入ると、長後は、旗本・朝岡丑之助の所領となりました。
1642年、長後天満宮に、石灯籠が寄進されています。

渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)

明治時代まで渋谷村の範囲は、大和市から藤沢市長後までだったので、長後が渋谷氏の領地であったことは、間違いないでしょう。

渋谷氏館跡の見学所要時間は、5分~10分といったところです。

交通アクセス

渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)への交通アクセス・行き方ですが、小田急・江ノ島線の長後駅から、約1km、徒歩15分になります。
長後駅「東口」から、線路沿いを歩いて行き、踏切を渡って行くと、高低差が少なく、ラクです。
舘跡の高低差を感じるには、引地川のほうからだと良いです。
駐車場は、事前調査で、長後天満宮境内が利用できると期待していたのですが、下記写真のとおり、閉ざされておりまして、残念ながら、駐車場は利用できませんでした。

渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)

長後駅周辺も、相変わらず、道路が狭いので、駐車場、難儀します。

中和田城やも富士塚城などと、セットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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