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中和田城【泉小次郎親衡館】の解説~泉親衡の領地、北条家の重臣・笠原康明も

中和田城【泉小次郎親衡館】




泉小次郎親衡館

中和田城(なかわだじょう)は、神奈川県横浜市泉区和泉中央南にある丘城で、泉小次郎親衡館(泉親衡館)とも言い、別名は天王山城になります。
西に和泉川が流れている台地の先端に築かれていると言う感じの平山城で、比高は20mほどです。

泉小次郎親衡館

鎌倉時代、泉氏の本貫は信濃国小県郡小泉荘(長野県上田市)になります。
鎌倉時代、武士への恩賞は「領地」です。
平家滅亡後も、鎌倉幕府の御家人になっていると言う事は、本領安堵、また恩賞として、本貫地以外に、追加で領地を与えられていた可能性は非常に高いです。
泉氏の功績は知られていませんが、当時の御家人は、日本全国、あちこちに追加で加増を受けていますので、泉区も、泉氏の領地のひとつだったと、充分に言えるでしょう。
そして、子供が元服すると、領地を分割したり、飛び地になっている、遠い場所の所領を与えたりして、生計が成りたつようにしています。

横山党・小山経隆の娘が、泉親衡の父・泉公衡に嫁いでいる可能性があることから、もしかしたら、横山党の母の化粧領が、和泉郷だったのかも知れません。





泉小次郎親衡(泉親平)が、建暦年間(1211年~1212年)に、道場にしたのが始まりと言う場所に、長福寺がありますので、泉親衡の父・泉公衡から、最初に与えられた領地だった可能性は充分にあるでしょう。
ただし、泉親衡が、菩提寺として創建したとされるのが泉龍寺で、現在の宝心寺(ほうしんじ)となります。
そのため、道場にしたのが始まりと言う長福寺は、泉親衡の時代には無かった可能性が高いです。

泉小次郎親衡館跡

なお、泉親衡は、1213年に、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の遺児である千寿丸を大将軍に擁立して、執権・北条義時を討とうと計画した「泉親衡の乱」のあと、行方がわかっていません。

ただし、道場の場所に、長福寺を創建した際の開山とされる僧侶・空山円印から、泉親衡館に場所に関して、読み解くことができます。





長福寺が創建された時代に関して、開基が空山円印である以上、泉小次郎親衡の時代ではないと言う事になります。
空山円印(くうさんえんいん)は、大覚禪師・蘭渓道隆の直弟です。
蘭溪道隆(らんけい-どうりゅう)は、南宋から渡来した禅僧で、鎌倉時代中期の1213年生まれ、没年は1278年です。
例えば、1253年に創建された鎌倉・建長寺は、執権・北条時頼が開基で、開山は蘭溪道隆となっています。
その蘭溪道隆の法嗣が、空山円印になります。
<注釈> 法嗣(ほうし)とは、師匠の教えを受け継いだ人の事。
空山円印は、鎌倉・浄妙寺の住職も務めており、没年は、1328年と分かっています。
空山円印が開山したと言うのが、長福寺の創建とされますので、泉親衡の乱の後、館跡に建てられた可能性があるでしょう。
1395年には、円覚寺の大雅省音(たいがしょういん)が中興したので、長福寺は、臨済宗・円覚寺派になったようです。





長福寺の西隣にある須賀神社は、泉小次郎が、鎮守神として、鬼門に祀った神社とされます。
そうなると、使われなくなった泉小次郎親衡館跡に、鎌倉時代後半に、長福寺が創建されたと考えるのが、妥当でしょうか?
下記は、本丸?から、1段下がった場所にある、泉小次郎馬洗いの池です。

泉小次郎馬洗いの池

しかし、なんで「中和田」と言う地名なのででしょうか?
中和田と呼ばれるに至った理由が、とても気になりますが、和田一族に関連しているのか?とも、感じてしまいます。
もし、ご存知の方がおられましたら、コメント欄などより、教えて頂けますと、ありがたいです。

中和田城

でも、城址になっている裏山の「泉中央公園」は別問題です。
丘の上を城とするのは、鎌倉時代より、もっと後年と考えられますので、泉親衡の時代の館は、麓の長福寺から近い場所(低い土地)にあったものと推測致します。

中和田城

板碑の古いものは、南北朝時代(元徳・建武・康永・貞和・延文など)のため、戦乱になると、丘の上に、防御性がある城(中和田城)として、改修されたのでしょう。

中和田城

下記の南側先端付近は、重要な防御ポイントのようで、土塁があったのか?、城跡の雰囲気が残っています。
戦国時代頃には、もっとハッキリとしていたことでしょう。





小田原城の北条家臣としては、西の和泉川の向こう側、上飯田には、平山源太郎がいました
中和田城主は、笠原藤左衛門であったと考えてようでしょう。
岡津城は、太田大膳亮です。

笠原康明

中和田城の笠原康明(笠原藤左衛門康明)は、北条早雲高越城にいた頃からの譜代の家臣、笠原氏の一族と考えられます。
大曾根城主で、小机城の城代、御馬廻衆・評定衆も務めた、宿老・笠原信為の子が、笠原康明です。
北条氏康北条氏政の評定衆である笠原康明は、1559年の段階で、小机八朔・東郷泉郷など191貫文を領しました。
1567年、北条氏が岩槻城を落とすと、笠原康明は奉行として岩槻方面の支配を担当しています。
北条氏政の次男・太田源五郎が、武蔵・岩槻城に入ると、笠原康明(笠原藤左衛門康明)が後見しました。

笠原康明

1580年3月には、北条氏政の正使として、笠原康明は、安土城などを訪問し、織田信長と交渉しています。(北条氏照の重臣・間宮綱信が副使)
途中、岡崎城では徳川家康に挨拶し、滝川一益の出迎えで、本能寺も訪れています。
そして、北条氏直と、織田信長の娘との婚約を成立させると言う大役を、笠原康明(笠原藤左衛門康明)は、成し遂げました。
約束どおり、織田信長は2年後に、武田勝頼を攻め滅ぼしました。

このように、笠原康明(笠原藤左衛門康明)は、北条家の重臣として、小田原城、小机城、岩槻城などに詰めており、ほとんど領地にはいなかったでしょう。
そのため、地元でも、笠原康明に関しては、よく知られていないようであり、中和田城の整備も、限定的であったと推測できます。
上野・沼田城を争っていた、真田昌幸が徳川家康の与力になると、1587年2月、笠原康明は、上野・厩橋城に入っていますが、以後、動向が不明です。





江戸時代には、合計2000石の旗本である、能見・松平家の松平昌吉(松平勝左衛門昌吉)が、和泉も領しています。

と言う事で、南北朝時代以降の中和田城の場所は、泉中央公園であり、鎌倉時代の泉親衡館は、長福寺の場所にあったと考えて、良いかと存じます。
ただし、日本全国の城の事例を見ても、このくらいの近距離ですと、全体としてひとつの城と言えますので、中和田城 = 泉小次郎親衡館と表現しても、ぜんぜん、問題ないと存じます。

中和田城

泉中央公園には、公衆トイレもあり、昼間は子供たちが遊んでいる憩いの場となっています。
鎌倉にも台湾リスが多いですが、泉中央公園でも木の上を良く見ると、リスがいるようです。
見学所要時間は10分~20分程度です。

交通アクセス

中和田城 (泉小次郎親衡館) への行き方・交通アクセスですが、とても便利です。
相模鉄道・いずみの線「いずみ中央駅」から徒歩約5分で麓になります。
ただし、公園周辺の道路は狭く、アクセス道路が1.2車線ですが、泉中央公園の東側に、長福寺墓地があり、短時間、クルマを止めさせて頂きました。
長福寺も行くなど、長時間見学される場合の駐車場は、線路沿いにある、コインパーキング利用で、お願いしたいところです。





近くには、富士塚城や、渋谷氏の長後館、丹後の局・供養塔、岡津城などもありますので、セットでどうぞ。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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