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越前・金ヶ崎城とは
越前・金ヶ崎城(かねがさきじょう)は福井県敦賀市金ヶ崎町にある標高86mの山城で、日本海に面していることから海城とも言えます。
敦賀湾を一望する小高い山になっており、国の史跡に指定されいます。
別名は敦賀城(つるがじょう)と言いますが、のち街中に築城した城のほうを一般的には敦賀城と呼ぶケースが多いです。
なお、金ヶ崎城から嶺続きのピークがありますが、天筒山城(てづつやまじょう)と呼び支城として区分することがあります。
更にですが、陸奥・金ヶ崎城、伊予・金ヶ崎城など日本全国に金ヶ崎城と同名の城があるため、この記事では越前・金ヶ崎城と明記させて頂きます。
鎌倉幕府を倒した新田義貞ですが、足利尊氏が京に復帰して北朝を始めた頃には、南朝として吉野に入った後醍醐天皇に味方していました。
1336年、後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて、公家の洞院実世らと北陸へ向かわせました。
この時、新田義貞らは氣比神宮の宮司・気比氏治に迎えられ、拠点としたのが金ヶ崎城になります。
南朝勢としては、尊良親王(たかよし-しんのう)、恒良親王(つねよし-しんよう)、新田義貞、新田義顕、脇屋義助、脇屋義治、洞院実世、世尊寺行房、気比氏治、得能通綱、瓜生保と名が見受けらます。
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当然、足利尊氏も、ほっておくことはできずに、斯波高経、高師泰、仁木頼章、今川頼貞、細川頼春、小笠原貞宗、塩冶高貞らの大軍を北朝勢として派遣しました。
そして、1336年~1337年にかけて、金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)になります。
杣山城に入っていた脇屋義治や、瓜生保らは北朝の包囲軍に攻撃をしましたが救援は成功していません。
そのため、劣勢となり兵糧も乏しかったことから、新田義貞は、脇屋義助・洞院実世と援軍を求めるため、2人の皇子と新田義顕らを残して金ヶ崎城を脱出しました。
しかし、金ヶ崎城は総攻めを受けて、尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は北朝方に捕縛され、落城しています。
その後、新田義貞は、一時、金ヶ崎城を奪取しましたが、斯波高経は平泉寺の宗徒を味方につけるなどして、新田義貞の反撃を防いでいます。
1338年には、藤島の戦いにて新田義貞は討死しています。
そのあとは、越前守護代・甲斐氏の一族が越前・金ヶ崎城に入って、敦賀城と改名しました。
室町時代には、越前守護・斯波氏と、越前守護代の甲斐氏が対立しました。
1459年、越前守護・斯波義敏は、室町幕府からの関東出兵の命令に逆らって、甲斐常治(かい-じょうち)の金ヶ崎城を攻めましたが、大敗を喫しています。
こうして斯波氏の力は衰えて、越前では朝倉孝景が勢力を拡大して行きました。
朝倉氏が越前を掌握すると、金ヶ崎城には朝倉一族が「敦賀郡司」として入っています。
1503年には、金ヶ崎城主の朝倉景豊が謀反を起こしましたが、朝倉宗滴はその誘いを断って、朝倉家当主・朝倉貞景に報告した功績から、金ヶ崎城主となっています。
1527年、朝倉宗滴の養子・朝倉景紀が敦賀郡司に就任しました。
朝倉景紀(あさくら-かげとし)は、朝倉家10代当主・朝倉孝景の弟で、1558年には、朝倉景垙(あさくら-かげみつ)に家督を譲っています。
後瀬山城の若狭・武田氏が内紛となると介入し、1561年5月、高浜城主・逸見昌経の叛乱鎮圧、1563年からの若狭・国吉城の粟屋勝久への攻撃も主導しました。
しかし、1564年、朝倉景垙は、加賀攻めの際に、陣中での亥山城主・朝倉景鏡と指揮権をめぐって口論となり自害します。
そのため、弟・松林院鷹瑳が還俗して朝倉景恒と改名し、敦賀郡司を務めました。
朝倉景恒(あさくら-かげつね)ですが、1566年9月に足利義昭が頼ってくると敦賀で迎えており、翌年11月まで1年3ヶ月間も歓待しました。
その後、足利義昭が一乗谷城に招かれると、父・朝倉景紀と共に、朝倉景鏡と家中の権力を争っています。
1568年7月、足利義昭が朝倉義景を見限って、織田信長を頼ろうと岐阜に向かう際、朝倉景恒は前波景当と一緒に2000の兵にて、近江まで足利義昭を警護しました。
その翌月、朝倉義景の命を受けて、若狭に侵攻すると、小浜城まで新宮氏、若狭・武田氏の跡継である武田元明を捕らえると、一乗谷に連れて行っています。
金ヶ崎の戦い
1570年4月、お市の方を嫁がせて浅井家と同盟していた織田信長は、越前・朝倉氏を滅ぼそうと越前に侵攻します。
このとき、従った織田勢は、徳川家康、池田勝正、木下秀吉、明智光秀、松永久秀、日野輝資、飛鳥井雅敦、若狭衆らです。
4月25日に天筒山城を占領すると、翌日には越前・金ヶ崎城の朝倉景恒は降伏しました。
朝倉景恒は、一乗谷に逃れたようですが、朝倉家の恥さらしとされ、永平寺に入ると失意のうちに約6ヶ月後、死去しています。
なお、金ヶ崎城が落城したあと、近江・小谷城主の浅井長政が織田家を裏切ります。
お市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を、秘かに織田信長に送って、浅井長政の裏切りを知らせたと言う逸話もあります。
最初は信用しなかった織田信長も、浅井勢が近江海津に進出したと続報がもたらされると、朝倉義景からと挟み撃ちにされる恐れがあったことから、撤退することにしました。
しかし、琵琶湖の東側は、浅井領のため、岐阜城に最短で戻るのは困難です。
そのため、越前敦賀から朽木谷を抜けて(朽木越え)、京へと逃げ延びました。
この時、朝倉勢の追撃を追撃を防ぐために、殿(しんがり)を務めたのが木下秀吉(のちの豊臣秀吉)であり、織田信長、最大のピンチでした。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)・金ヶ崎崩れとも呼ばれ、日本の戦国史上、有名な織田信長の撤退戦となりました。
織田信長、供回り10人ほどで京に逃れたと言われています。
その途中、朽木城の朽木元綱は松永久秀が説得して、織田勢は無事に通行できたのも大きいです。
金ヶ崎の退き口にて、山内一豊は深い傷を負いながらも、朝倉勢の三段崎勘右衛門(みたざき-かんえもん)を討ち取ったことから400石と出世しました。
さて、織田信長は姉川の戦いにも勝利し、1575年には越前・朝倉氏と浅井氏を滅亡させると、武藤宗右衛門を敦賀郡代になっていますが、花城山城を居城にしたようです。
1582年、本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ち、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利すると、家臣の蜂屋頼隆が敦賀に入ります。
このとき、三層天守を持つ敦賀城を街に新築したため、金ヶ崎城は使われなくなったようです。
頂上部分は「月見御殿」と呼ばれる南北朝時代の本丸跡になります。
展望台からは眼下に、敦賀火力発電所が見えました。
麓には敦賀港があり、新日本海フェリーの敦賀フェリーターミナルにもなっています。
下記は敦賀の町並みです。
中腹には「恋の宮」とも呼ばれる「金崎宮」があり、春には全国的に珍しい「花換まつり」が開催されるなど、縁結び・恋愛成就のパワースポットになっています。
難関突破・開運招福の御神徳もあるとされていますので、合格祈願にも、良さそうです。
金ヶ崎城への交通アクセス・行き方ですが、JR敦賀駅よりコミュニティーバス「ぐるっと敦賀周遊バス」に乗車して約8分「金崎宮」バス停下車となります。
敦賀駅から歩くと麓まで徒歩30分、タクシーで約9分です。
クルマの場合、金ヶ崎公園駐車場が無料で利用可能になっています。
駐車場の場所は、当方のオリジナル北陸地図にてポイントしておきます。
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見学所要時間ですが、駐車場から登って行って、グルッと廻って降りて参りますと、30分~60分といったところです。
金ヶ崎城と天筒山城の両方を見学すると、2時間以上みたほうが良さそうです。
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・新田義貞とは 鎌倉幕府を滅亡させるも
・織田信長の撤退戦である金ケ崎退き口・金ケ崎古戦場跡
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