福井県

越前・藤島城~藤島の戦いと新田義貞最後の地である燈明寺畷

越前・藤島城

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越前・藤島城

越前・藤島城(ふじしま-じょう)は、足羽七城の一つで、福井県福井市藤島町の超勝寺が城跡になります。
東藤島駅近くとされる林城跡と、よく混同されますが、藤島城も縄張りや規模などはよくわかっていません。


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足羽七城は名称からも7つの城と受け取られがちですが、実際はには10数ヵ所築いた城砦の総称で、代表的な城は下記のとおりとなります。

勝虎城(船橋町)
高木城(構ヶ城)(高木町)
安居城(金屋町)
和田城(和田東町)
江守城(南江守町)
深町城(深見町)
足羽城(足羽上町)
藤島城(藤島町)
林城(林町)
波羅密城(原目町)

これは、南北朝時代の1338年に、南朝方で杣山城に逃れた新田義貞は瓜生保と瓜生義鑑坊の協力を得て3000の兵となり、北朝方で越前国の守護である足利高経(斯波高経)が籠る越前府中の新善光寺城を伺います。
このとき、足利高経(斯波高経)が防備を固めるため、支城を築いたのが、足羽七城と言う事になります。

藤島の戦い

新田義貞は、攻めたてて足利高経(斯波高経)を逃走させると、河合城に3万余騎の軍勢を集めて、足羽七城を攻撃しました。
黒丸城に斯波高経が籠ったため、軍勢を進めましたが、新田勢に加わっていた平泉寺(へいせん-じ)の衆徒が北朝に寝返って、藤島城に籠城します。
そのため、平泉寺衆徒の籠った藤島城を攻撃することになり、新田義貞は見方を鼓舞するため、僅か50騎程度で、加勢するため大回りするコースで向かったようです。

しかし、その途中に、北朝勢も斯波高経や吉見頼隆が、小黒丸城(黒丸城)から出陣した得江頼員、細川出羽守、鹿草公相(彦太郎)ら軍勢300が藤島城へ援軍として向かっており、両軍は遭遇して戦闘状態となります。
これが、1338年閏7月2日、藤島の戦いです。


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僅かな手勢の新田義貞は、中野宗昌の退却進言に対して、部下を見殺しにして生き残るのは不本意であるとし、共に戦ったと言います。
燈明寺畷(とうみょうじなわて)の水田にはまって、馬が動けなくなったところを矢を浴びて落馬した新田義貞は、更に眉間を射抜かれました。
そして、新田義貞は、頚を太刀で掻き切って自刃したと伝わります。
氏家重国が新田義貞の首を取りました。

新田義貞の首級は京に送られ、都大路を引き回しのうえ、獄門とになっています。
京都の滝口寺に、新田義貞の首塚があります。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

のち、江戸時代となって、百姓の嘉兵衛が1656年に、土の中から立派な「兜」を発見し、福井藩主・松平光通に報告・献上します。
鑑定の結果、新田義貞の兜に間違いないとして、1660年、発見された場所に「新田塚」の石碑が置かれました。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

これが、現在の燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地で、国の史跡に指定されています。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

ちょっとした公園になっており、石碑も建立されています。

新田義貞最後の地

街の名前も新田塚町となっています。

新田義貞最後の地

群馬に生まれ、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞も、遠く越前にて命を落としました。

新田義貞最後の地

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地と藤島城跡の場所は、当方の中部オリジナルマップにてご確認願えますと幸いです。

なお、新田義貞が討死にした翌年に、新田義貞の弟・脇屋義助が挙兵して黒丸城を攻め落とします。
そして、足利高経は加賀へと逃れました。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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