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玄蕃尾城とは (続日本100名城) 賤ヶ岳の戦い

玄蕃尾城




玄蕃尾城(げんばお-じょう)は、福井県敦賀市刀根と滋賀県長浜市余呉町柳ヶ瀬にある標高439mの山城で、別名は内中尾山城(うちなかおやまじょう)、内中尾城、柳瀬城と言います。
直下にある信号機付き交互通行で有名な柳ケ瀬トンネルが海抜280mですので、比高は約160mほどと言って良いでしょう。
歴史的にも遺構状態にしても良好なことから国の史跡、そして続日本100名城にも選ばれています。
柴田勝家が道路を開通させた北国街道(国道365号)を見下ろせる柳ヶ瀬山(中尾山)にあります。





1573年には、近江・小谷城に援軍として赴いていた朝倉義景2万の軍勢が、疋壇城経由で一乗谷城へ引き返した際に、織田勢が追撃し、玄蕃尾城の南側にて刀根坂の戦いと言う激戦も繰り広げられました。
その時、すでに越前・玄蕃尾城が存在していたのかは不明でして、最初の築城には諸説あります。
一番古い時期の説ですと、地元の豪族・柳ヶ瀬秀行が築城したと指摘しています。
この柳ヶ瀬秀行は柳ヶ瀬城主でしたが京極家の内紛で1489年に討死し断絶しています。
あとは、疋壇城の疋壇久保が築城したとする説、玄蕃と言う官位から越前・朝倉山城朝倉景連(朝倉玄蕃助景連)が築いたとする説があります。
それを考えますと、北国街道を整備した際に柴田勝家の命を受けて、佐久間盛政(佐久間玄蕃允盛政)が築いたのかな?とも感じてしまいますが・・。
いずれにせよ、1583年、賤ケ岳の戦いの際には、防御力もあった城になっていたようですので、柴田勢が改修したのは間違いなく、柴田勝家は本陣を置いて、羽柴秀吉に対しました。

賤ヶ岳の戦い

1582年、明智光秀の謀反による本能寺の変のあと、清洲会議を経て羽柴秀吉と柴田勝家は対立します。
北ノ庄城の柴田勢が積雪で動けないのを見越して、冬になると羽柴秀吉は、柴田勝豊の近江・長浜城と、岐阜城織田信孝を降伏させ、柴田勢の勢力を削ぎました。
それら羽柴勢の動きに抵抗した伊勢・長島城滝川一益を羽柴勢は包囲しましたが、1583年になって雪解けになると柴田勝家・佐久間盛政・前田利家・三木自綱ら3万の軍勢が、3月12日、この柳ヶ瀬の山中に進出してきました。

玄蕃尾城

その知らせを受けた羽柴秀吉は、軍勢を急きょ近江に派遣します。
従ったのは羽柴秀長黒田官兵衛前野長康中川清秀加藤清正福島正則石田三成ら5万で転進します。
そして、3月19日に、木ノ本に布陣して、両軍は対峙しています。
羽柴勢としては、余呉湖の南側にある大岩山砦には中川清秀を入れ、また、岩崎山には高山右近、賤ヶ岳砦には桑山重晴が入っていました。

下記は、羽柴秀長が本陣を置いたと推測される、秀吉軍土塁跡(長浜市余呉町中之郷)です。

秀吉軍土塁跡

両軍ともすぐに火蓋は切っていないため、この間に、玄蕃尾城も大改修された可能性が高いです。

そして約1ヶ月後、一度、羽柴家に降伏していた織田信孝が、伊勢の滝川一益と結んで再び挙兵したことから、羽柴秀吉の本隊は、美濃に引き返し、4月17日、大垣城に入りました。





こうして、手薄になった羽柴勢に対して、柴田勝家らは攻撃を開始します。
佐久間盛政は賤ヶ岳砦・大岩山砦などを攻撃し、桑山重晴・高山右近木ノ本にある羽柴秀長の本陣に後退します。
中川清秀は猛攻を受けて4月20日に討死しました。
黒田官兵衛だけは、羽柴勢の攻撃に屈しず守り抜いており、また、琵琶湖を渡って来た丹羽長秀の軍勢が桑山重晴の残兵と合流して、賤ヶ岳砦を取り返しています。

開戦の知らせを受けた羽柴秀吉は、大垣城から13里(52キロ)の距離を、僅か5時間で、軍勢を移動させると言う「美濃大返し」(みのおおがえし)を実行します。
賤ヶ岳へと通じる街道沿いの村々に、オニギリの炊き出しと、松明の用意を命じ、14時に出た軍勢は19時には到着しています。
その夜、大岩山にて野宿していた佐久間盛政は、羽柴本隊が戻ってくると言う情報は得ていましたが、まだ数日後の事だろうと考えていました。
しかし、木之本に羽柴本隊が到着したとの情報に驚いたところに、羽柴勢は攻撃を開始しました。
そして、茂山に布陣していた柴田勢の前田利家が、軍勢を引き返して戦線離脱します。
更には、柴田勢の不破勝光・金森長近も退却したため、柴田勢の士気は下がり、佐久間盛政は撃破され、柴田勢は総崩れとなりました。

玄蕃尾城

佐久間盛政は金沢城へ戻ろうとした途中に落ち武者狩りで捕縛され、羽柴陣営に連れていかれました。
黒田官兵衛、浅野長政などの陣営に連れていかれたとも言います。
羽柴家の家臣になるようにと説得も受けたようですが、生きて秀吉を見れば殺害するだろうと断り、名誉の切腹も遠慮して、京都市中引き回しを望み、宇治・槙島城近くにて斬首されました。享年30。

柴田勝家の小姓頭だった毛受兄弟が、主君の甲冑を着て、身代わりとなって討死したと言う逸話もあります。

柴田勝家は、本拠の北ノ庄城に逃れましたが、4月23日、前田利家を先鋒とした羽柴秀吉の軍勢に包囲され、4月24日、お市の方らとともに自害しました。
浅井三姉妹の茶々・お江お初は、秀吉の陣営に引き渡されて保護を受けています。

なお、この賤ヶ岳の戦いにて、斬りこみ一番槍の武功を挙げた、羽柴秀吉の家臣は、賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)として称賛されました。
脇坂安治片桐且元平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明がその七本槍で、のち実権を得た豊臣秀吉のもとで大きく活躍しています。

玄蕃尾城への交通アクセス・行き方ですが、県道140号・柳ヶ瀬トンネルの西側付近から北にそれて、道が細い林道に入ります。
下記がその入口で、西側から向かった場合、下記写真の高速高架下へ左折します。

柳ヶ瀬トンネル

そして、林道を約2km進むこと約20分、林道の終点に駐車スペース(5台)があります。

玄蕃尾城

その駐車場から刀根越を経由して玄蕃尾城には、急な坂道を徒歩で片道30分、熊さん注意です。
余呉駅からですと、余呉駅でパンフレットを入手し、レンタサイクル(貸自転車)で30分、そして、柳ヶ瀬集落北の登山口より、徒歩約40分で玄蕃尾城の本丸跡に到達できるようです。
なお、12月~3月は積雪に注意です。
夏場は熊鈴、虫除けと、トレッキングポールもあると安心かと存じます。
もちろん、地元の皆様が倒木の撤去など整備されておられますので、感謝したいところです。

枡形虎口、郭、土塁、馬出、空堀、櫓台など多くの遺構が非常に良好な状態で残っていると言います。
東屋やベンチなど、余計なものが一切ないのが良い所みたいですので、山城好きの方にはとてもお勧めです。
ただ、今回は帰りの新幹線の時間の関係と、5月下旬で熱中症気味になってしまったことから、麓からの撮影に留めました。





今回、賤ヶ岳古戦場に登れる賤ヶ岳リフトも利用したいと考えていたのですが、なんでも、がけ崩れにて運休になっていると言う事で、断念しました。
何年も前から、賤ケ岳リフトに乗りたいと思っていましたので、残念ですが、今後の課題です。

続100名城のスタンプがある場所は、林道駐車場にある仮設トイレの前(冬季以外)と、余呉湖観光館(営業中)、JR余呉駅(昼間のみ)にもあるようです。

越前・朝倉山城と朝倉景連
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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