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摂津・池田城(いけだじょう)は、大阪府池田市城山町周辺の標高50mにある平山城(丘城)となります。
五月山山麓の台地先端に築かれており、南と西は崖と谷を利用した要害の地で、東側は空堀で防御しています。
最初の築城は不明ですが、室町時代初期に摂津・豊島の豪族である池田教依が城館を設けたと考えられています。
南北朝時代の摂津守護は楠木正成で、のちに池田教依は足利尊氏から本領安堵となりました。
池田教依は楠木正成の嫡男・楠木正行の遺児である楠木教正を引き取ると育てて、のちに池田氏の惣領にしたとされています。
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室町時代になると、池田充正は有力国衆として管領・細川勝元に従っており、荘園の代官請負や高利貸にて富を得ました。
そのため、守護大名に匹敵する経済力を有しており、その繁栄ぶりは「富貴栄華の家」「富貴無双」などと京都でも称されてます。
その財力を背景に、1443年、池田城を改修しており、本丸の周辺に弓場や馬場も設け、家臣らを城内に住まわせましたが、これは当時にしてはかなり珍しい縄張りです。
応仁の乱になると、馬上12騎、野武士1000人を率いて上洛し、細川勝元のために戦いましたが、1469年に池田城が陥落しています。
しかし、大内政弘が撤退すると池田城を奪還し、さらには領地を拡大させ、摂津国桜井郷の代官職になりました。
なお、池田充正の弟・池田恒元(池田恒正)または池田恒利が、尾張に移ったとされており、その子孫から織田信長の重臣とになった犬山城主・池田恒興に繋がったともされます。
その後、細川氏の内紛を起こすと、池田貞正は細川澄元に味方したため、1508年に細川高国から攻撃を受けて池田城は落城しました。
池田貞正は自刃し、子の池田信正は逃走しています。
細川氏の補足
細川勝元の子・細川政元は、結婚しなかったため、子がおらず、細川高国と細川澄元の2人を養子にしていました。
このため、細川家では家督争いとなり、この戦いはその養子の子の代まで続きました。
細川高国の養子が細川氏綱、細川澄元の子が細川晴元となります。
この細川家の家督争いに摂津・池田家は巻き込まれていたのです。
池田信正
池田信正(いけだ-のぶまさ)は、池田城が落城し、父を失いましたが、1519年に細川澄元が挙兵した際に呼応し、摂津・下田中城にて協力した戦功により豊島郡に復帰しました。
その後、1531年には、細川高国に味方した浦上村宗によって、再び池田城が落ちていますが、その浦上村宗が討死し、細川高国が、摂津・大物城(尼崎城)に逃げ込もうとし、捕縛されて処刑となる「大物崩れ」となります。
1533年、淡路に逃れていた細川澄元の子・細川晴元が池田城に入ったとあることから、池田氏は細川晴元の部将として動いていたようです。
また、1540年、河内・飯盛山城主である木沢長政が、細川晴元に反旗を翻すと、三好長慶と共に太平寺の戦いに参加しています。
1546年、細川氏綱の乱が勃発し、細川高国の養子・細川氏綱と遊佐長教が挙兵すると、池田信正は細川氏綱に帰参したため、三好長慶に攻められ池田城は降伏しました。
このとき、一度は許した細川晴元が、突然、切腹を言い渡し、1548年5月6日に池田信正(池田久宗)はこの世を去っています。
これは、池田信正(池田久宗)の正室は、三好政長の娘でしたが、この妻の父・三好政長が、池田城の財宝などを手に入れるなどの理由から細川晴元に讒言したとされています。
子の池田長正は、細川晴元の措置に怒って三好長慶に従うなど、摂津では細川晴元への不満が続出し、離反が相次ぐことになります。
三好長慶も、かつては敵だった細川氏綱と遊佐長教と結んで反乱を起こしすと榎並城を包囲し、江口の戦いで三好政長は敗れて逃走し、細川晴元は坂本まで逃れて没落しました。
こうして、池田長正(いけだ-ながまさ)は、三好家に従って活躍し、1563年に死去しています。
池田勝正
池田勝正(いけだ-かつまさ)が家督を継ぎますが、三好長慶が死去したあと三好家が弱体化します。
そのため、池田勝正は三好三人衆と組み、松永久秀と敵対しました。
やがて、織田信長が台頭してくると、1568年に、足利義昭を擁して上洛した際には、最初、池田城の背後にある五月山に籠って織田勢の攻撃を防いでいます。
しかし、素直に織田信長の能力を認めて降伏すると、処罰されないどころか、織田信長も池田勝正を認めており、加増して6万石にしています。
家臣には荒木村重、中川清秀らがいます。
織田信長は、文武に秀でた池田勝正を筆頭に、伊丹親興と和田惟政の3名に摂津支配を任せ「摂津三守護」と称しています。
池田勝正は摂津守護に任じられ、伊丹親興・和田惟政が与力として加わりました。
そして、織田家による但馬・播磨の平定では、浦上宗景の征討にも協力しています。
また、池田城は大規模な改修も行われました。
下記は大きな空堀です。
1570年、浅井長政らの謀反を受けた、金ヶ崎の戦いでは、明智光秀や木下秀吉らを率いて殿軍の大将をつとめ、織田信長を無事に逃がしました。
しかし、そのあと、家臣の荒木村重(正室は池田長正の娘)と、池田一族の池田知正(池田長正の嫡男)が三好家に寝返りました。
池田勝正は捕縛されると池田城から追放され落ち延びたとされます。
池田知正(荒木久左衛門)
池田知正(いけだ-ともまさ)が、摂津・池田城主となると、1571年には白井河原の戦いで、和田惟政を敗死させ、茨木城には荒木村重が入っています。
織田信長によって、池田勝正は摂津・原田城に入り、細川藤孝らと転戦しますが、織田信長と足利義昭が決裂すると、池田勝正は足利義昭に味方しました。
また、池田城の池田知正も、細川藤孝の説得を振り切って、足利義昭に従ったため没落し、池田家は織田氏に寝返った荒木村重に乗っ取られました。
荒木村重は織田信長に気に入られて、原田城を追われた池田勝正は高野山に追放となり、池田知正は摂津から追放されたあと、のちに織田信長に降伏すると荒木村重の家臣に加わり、荒木久左衛門と呼ばれています。
また、池田勝正は池田に戻って隠居したと言いますが、細川藤孝・有馬則頼に仕えたともあり、諸説あります。
こうして、池田城には荒木村重が入り、茨木城には中川清秀、高槻城には和田惟政・和田惟長の家臣だった高山右近が、暗殺計画を察知して返り討ちし、荒木家から高槻城を任されています。
1574年には、荒木村重が伊丹城を攻めて、伊丹親興を自害させると、荒木家の本拠として有岡城を整備しています。
そのため、再び、池田城は荒木久左衛門(池田知正)が城主になったともされています。
荒木村重は、1579年、有岡城に籠城して織田家に謀反を起こします。
このとき、高槻城、茨木城、尼崎城(大物城)でも籠城し、有岡城の戦いとなりましたが、池田城に軍勢が配置された記録がなく、実際の池田城主も不明と言えます。
逆に織田勢が池田城に兵を入れていました。
織田信長も摂津・池田城に本陣を置いたと伝わります。
よって、荒木久左衛門(池田知正)は、有岡城10ヶ月の籠城に加わっていたようで、突然、荒木村重が、尼崎城に移ると、その後、有岡城の城代を任されています。
そして、荒木久左衛門は、有岡城を開城して織田家に降伏し、尼崎に逃れていた荒木村重の説得をしますが失敗します。
そのため、織田家からも責任を問われると感じた、荒木久左衛門(池田知正)は淡路に逃れ、荒木家や池田家の妻子や捕らえられた家臣らは、処刑されました。
池田城は廃城とになり、荒木久左衛門は、織田信長が本能寺の変で討たれたあと、羽柴秀吉に仕官して豊島に2780石で復帰しています。
関ケ原の戦いでは、徳川家康に従って、小山評定にも参加しており、戦後に5000石に加増となっています。
現在は池田城跡は公園になっており、模擬大手門や模擬櫓台として櫓風の展望台などが設けられています。
なお、模擬天守内には、池田城の概要がパネル展示されていました。
また、池田城東側の「城山勤労者センター」は、池田城の城郭模型などが展示されています。
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池田城への交通アクセスですが、電車の場合、阪急電鉄・宝塚本線の池田駅から徒歩15分となります。
クルマの場合、池田城跡公園には駐車場が無いため、近隣のコインパーキング、または五月山体育館の有料駐車場利用などになります。
当方のオリジナル地図では、その五月山体育館の駐車場入口をポイントしていますが、右折入場は不可です。
・池田和泉守~日本で初めて鉄砲自殺したとされる荒木村重の重臣
・有岡城(伊丹城) 伊丹駅前に残る城跡
・中川清秀~荒木村重傘下の有能な武将
・荒木村重とは~池田家家臣から摂津37万石の大名に出世した豪傑
・森可成~攻めの三左と呼ばれた槍の名手
・高山右近~60000石になったキリシタン大名
・高槻城 城域も大きかった高山右近の名城
・茨木城 茨木長隆の居城も今はその面影なし
・大内政弘の解説~天下に名を馳せた西軍の重鎮
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