岩手県

花巻城 稗貫氏の本拠地と稗貫広忠

花巻城

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花巻城とは

花巻城(はなまき-じょう)は、岩手県花巻市花城町にある標高80mほどの平山城で、比較は約20mあります。
別名として古くからは鳥谷ヶ崎城(とやがさき-じょう)と呼ばれていました。
現在、本丸は鳥谷ヶ崎公園として、きれいに整備されており、西御門などが復元されています。
最初の築城は不明ですが、古くは平安時代の1051年、前九年の役があった際に、安倍頼時の磐基駅ではないか?と考えられています。


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磐基駅と言うのは地名と考えられますが、中継基地(駐屯地)として新しく新設させたようです。
また、胆沢城・磐基駅・志波城とあるため、胆沢城と志波城(徳丹城)との中間である花巻城跡が推定地となっています。
安倍氏(あべ-し)は、安倍晋三総理大臣のご先祖様とも推定されていますが、大和朝廷は安倍頼時の事を俘囚長と表現しています。
俘囚(ふしゅう)と言うのは、陸奥・出羽の蝦夷(先住民)で、朝廷に従った者のことで、その「長」すなわち代表者と言う事になります。
安倍氏の地位を受け継いだのが、のち、平泉・金色堂を建造する奥州藤原氏と言う事です。

花巻城

鎌倉時代になると、現在の花巻JCTより西側にある小瀬川城(小瀬川館)に伊達為重が入りました。
伊達為重は、戦国時代に暴れまわる伊達政宗の祖である伊達朝宗の4男とされます。
稗貫郡を賜ったことから、稗貫為重(ひえぬき-ためおも)と称した模様です。
ただし、横山党の流れである中条家長の子孫が下向したともされています。
なお、前述したとおり、稗貫氏の本拠は最初、小瀬川館であり、その後、十八ケ城(さかりが-じょう)に移りますので、まだ、花巻城(鳥谷ヶ崎城)は、使われていなかった可能性があります。

花巻城

南北朝時代には、高水寺城に派遣された斯波家長に従った模様で、1340年、八戸・根城の南部政長から攻撃を受けました。
稗貫出羽権守が討死して稗貫氏は大打撃を受け、陸奥・岩崎城にいた和賀氏の鬼柳二郎清義も討死したようです。
しかし、津軽の曽我貞光が南部家の背後を襲ったため、領地を取り戻しています。

花巻城

1435年、和賀の大乱では、和賀氏の一族である須々孫氏に味方しました。
しかし、十八ヶ城を南部勢に包囲されて、南部家に降伏・臣従しています。

花巻城

室町時代には、奥州探題・大崎氏に属しました。
1555年には、稗貫輝時(稗貫輝家、稗貫輝忠)が家来5名を連れて上洛し、将軍・足利義輝に黄金10両を献上しています。

花巻城

戦国時代になると鳥谷ヶ崎城を居城とし、1586年、斯波氏と南部氏が再び争うと、稗貫氏は、斯波詮真に和議を進めて、仲介役を行い南部信直に停戦させています。

花巻城からの展望

しかし、この頃、稗貫氏の当主は、養子につぐ養子の状態で、稗貫晴家は葛西宗清の子、稗貫輝時は奥州・斯波氏の出身とされます。
和賀義忠の子(兄)とされる稗貫広忠(稗貫家法・稗貫重綱)のとき、1590年、豊臣秀吉小田原攻めとなりました。
参陣しなかった稗貫氏は所領没収となっています。

花巻城

鳥谷ヶ崎城には浅野長政が一時入り、帰ってからは浅野重吉が守備しています。

花巻城

1591年、葛西大崎一揆に同調して和賀義忠が決起した際には稗貫広忠も参加して、和賀・稗貫一揆となりました。
安俵玄蕃、岩田堂隠岐、轟木長左衛門敦久などが稗貫氏の家臣に見られます。

花巻城

一揆勢は、和賀氏の二子城を奪還して、次には稗貫氏の鳥谷ヶ崎城を包囲しました。
落城寸前まで追いつめ、浅野重吉を一時攻略するも、南部信直が豊臣勢の援軍として駆けつけて和賀義忠は討死し、稗貫広忠は逃亡するも程なくして死去したとも、大崎氏を頼って落ちたとも伝わります。
和賀義忠は逃走の途中に、落ちの者狩りに遭い、殺害されたも言います。

花巻城

その後、花巻8000石は南部信直の重臣・北秀愛に与えられて、鳥谷ヶ崎城を改修すると花巻城と改名しました。

稗貫広忠の没後に、稗貫広忠の娘(または、稗貫広忠の未亡人)である稗貫於三が出家し月庵尼と称していましたが、三戸城を訪れると晩年の南部信直に見初められて還俗し、稗貫御前と呼ばれる側室になりました。
ただし、稗貫家再興には至っていません。
1598年、北秀愛が死去したあとは、父の北信愛(北松斎)が花巻城主になっています。


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1600年、関ヶ原の戦いで南部家が出陣している間に、和賀忠親が旧領回復を目指して岩崎一揆を起こしました。
この時、稗貫氏の名は見られませんが、稗貫の浪人としては、下記の武将の名前があります。

根子周防守高純
根子備中守高充
根子孫三郎
根子内蔵助俊吉
根子弾正忠
根子越後守高重
根子忠三郎高成
櫻 雅楽助
矢澤掃部助
矢沢弥太郎
八重畑美濃守
八重畑刑部入道休信
八重畑又左衛門
八重畑又三郎

花巻城

これほど従ったのには、稗貫氏最後の当主である稗貫広忠は、和賀義忠の実子?(稗貫広忠の弟が和賀義忠?※諸説あり)であったことからでしょう。
2000の一揆勢によって花巻城も攻撃されました。
特に、花巻城の夜討ちと呼ばれる急襲を受けましたが、北信愛が見事撃退しています。

花巻城の案内図

その後、南部利直が次男・南部政直を2万石にて花巻城に入れると城下町も整備されて城も近世城郭として完成しました。
本丸には二層二階の櫓や城門があったと言います。
1614年には、二子城から城門を移築して搦手門として使用したようで、現在は花巻城の近くにある鳥谷ヶ崎神社に、二子城門が更に移築・現存されています。

 二子城門(移築)

あと花巻市役所の近くにも、時鐘堂が現存しています。
この鐘は、もともと盛岡城用の作りましたが小さくて、音が城下に届かなかったため、花巻城に持ってきたらしいです。

花巻城

1624年、後嗣がいないまま25歳で南部政直は没したため、花巻は盛岡藩の直轄地となりました。
ただし、仙台藩との重要防衛拠点であったため、花巻城の破却は免れて、城代が派遣されて幕末を迎えることになりました。


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江戸時代には、蒲生氏郷・浅野長政・南部信直らの家中の中に稗貫氏を称する藩士がいます。

交通アクセス

花巻城への交通アクセス・行き方ですが、JR東北新幹線「新花巻駅」からバスで約15分「大町」バス停下車して、徒歩約5分となります。
駐車場は無いのですが、南側にある武徳殿と言う公共施設?の駐車場を拝借させて頂きました。

陸奥・衣川柵(並木屋敷) 安倍頼時と安倍貞任
陸奥・岩崎城 和賀・稗貫一揆や岩崎一揆の舞台
志波城 大和朝廷の陸奥における最北端・最前線基地
徳丹城 文室綿麻呂の蝦夷討伐完了
高水寺城(陸奥・郡山城) 斯波詮直と忠節を貫いた岩清水義長
二子城 和賀・稗貫一揆で落城する
岩谷堂城 江刺氏の本拠地
丹内山神社 強力なパワーを発するアラハバキ神の巨岩
盛岡城 哀愁漂う東北の日本100名城 訪問攻略法
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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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