岩手県

志波城 大和朝廷の陸奥における最北端・最前線基地

志波城

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志波城(しわ-じょう)は、岩手県盛岡市の北上川と石川の合流地点に近い場所にある平城・古代城柵で「斯波城」と言う漢字でも書くことがあります。
国の史跡に指定されており、志波城古代公園として整備されています。
また、外郭南門(がいかくなんもん)、築地塀(ついじべい)、政庁の南・西・東の門、官衙建物などが復元されています。


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最初の築城は平安時代初期で、蝦夷討伐のため、征夷大将軍になった坂上田村麻呂が造営した、陸奥では最北にある城柵であり、最大規模でもあります。
年代としては、払田柵(ほったさく)が801年頃、胆沢城(いさわ-じょう)が802年、志波城は803年、徳丹城は812年頃となります。
アテルイとモレが降伏したのが802年に胆沢城を築いていたころですので、そのあと志波城が築かれたと言う事になります。

志波城

と言うことは、阿弖流為が降伏したあとも、陸奥では抵抗を続けた蝦夷がいたのでしょう。
ただし、志波城より北に城柵が築かれたと言う記録が無いため、いにしえの風が漂うこの地は、大和朝廷の最前線であったと推測されます。

志波城

竪穴住居跡だけで、最大2000棟分の穴が発掘されています。

斯波城

しかし、文室綿麻呂が赴任していたころ、雫石川が氾濫したようで、北側の部分が失われており、新しく築かれた徳丹城に、10年ほどで移転したと推定されています。

ちなみに、792年に、斯波(志波)のエミシ首長、阿奴志己(あぬしこ)が、朝廷に帰属することを願い出たとの記録があります。
このように、早くから大和朝廷に降伏した蝦夷は俘囚(ふしゅう)と呼ばれました。

のち、俘囚長として君臨した安倍氏が、奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手)に勢力を張り治めた模様です。
俘囚(ふしゅう)と言うのは、もともと蝦夷(エミシ)の出身でしたが、戦わずして大和朝廷に早くから従った者を概ね指しています。
平安時代の中期、安倍頼時平泉衣川柵(並木屋敷)を本拠とした模様です。
なお、津軽・安東氏(安藤氏)、秋田氏、九州・松浦党、米内光政、安倍晋三総理大臣などが安倍氏の末裔とされています。


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2015年3月にオープンした官衙建物(志波城古代公園案内所)は資料館(ガイダンス施設)として公開(9時~17時)されており、内部では展示などの見学が可能になっています。
毎年2月~3月3日までは、いにしえのひなまつり展として、お雛様も飾られるようです。
例によって、広いので、カメラのフレームに全体が収まりません。
ハイビジョン動画でも撮影してみましたので、よければ、ご覧頂けますと幸いです。

志波城への交通アクセス・行き方ですが、JR盛岡駅からバスで所要25分(岩手県交通本宮線・羽場線 矢巾営業所行き)、飯岡十文字バス停にて下車して徒歩5分となります。
無料の駐車場が完備されていますが、場所は当方のオリジナルお城マップにてご確認頂けますと幸いです。
敷地を全部見学しますと30分くらい必要です。

今回3月末に訪問させて頂きましたが、前日の夜に降った雪で、地面は積雪となっていました。

5分でわかる坂上田村麻呂とは
徳丹城 文室綿麻呂の蝦夷討伐完了
文室綿麻呂と都留伎~二戸アイヌ壇の史跡とねぶた祭りの関係
払田柵 雄勝城 古代城柵に魅せられる国史跡
秋田城 大和政権の支配の北限と俘囚とは
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陸奥・衣川柵(並木屋敷) 安倍頼時と安倍貞任
歴史公園えさし藤原の郷~大河ドラマなどの撮影ロケ地のセット


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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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