岩手県

二子城 和賀・稗貫一揆で落城する

二子城




二子城(ふたご-じょう)は、岩手県北上市にある標高130mの平山城で、比高は70mと、北上川側は断崖状になっていて、なかなか堅固です。
2つの峰を持った山(小さいほうは秋葉山)に築かれているため二子城と呼ばれるようになったと存じますが、別名として地元の方は飛勢城(とばせじょう)と言います。

最初の築城は不明ですが、鎌倉初期の1191年に多田忠頼(多田式部大輔忠頼)が和賀郡に下向して二子飛勢の森に居住したとあります。
この多田忠頼は、源頼朝が伊豆にて幽閉されていた際に、伊東祐親の娘との間に生まれた子(春若丸)ともされますが、確証は無いようです。
横山党の中条氏の後裔とする説もありますが、以後、和賀郡惣領職となり代々「和賀ノ御所」と呼ばれようになりました。
二子城の中心部分にある八幡神社の境内は「飛勢の森」(とばせ-のもり)と言います。
ただし、山城に住んだわけでなく、北東側の北上川に面した場所にある古館(白鳥館)が平時の城で、周辺には家臣団の屋敷を配置した模様です。





なお、和賀氏は基本的に陸奥・岩崎城のほうを本拠にしていますので、この陸奥・二子城は、弟など一族が領したと考えるのが一番しっくりきます。
となると、1224年頃、刈田義季(刈田平右衛門尉義季)が和賀郡の地頭職となり、刈田義季の嫡子・刈田三郎兵衛尉義行の代に下向したのでしょう。
和賀氏を称するようになりました。
刈田義季は、武蔵国北埼玉郡中条保を領し、石橋山の戦いで戦功もある横山党の中条家長を祖に持つ御家人で、和田義盛の養子です。
和賀義行は、嫡男・和賀泰義を和賀郡惣領として岩崎塞に、次男・和賀行時を橘郷、三男・和賀景行は須々孫、また和賀義行の嫡男・和賀泰義は庶子の和賀光義を鬼柳郷に分知して一族を配しました。

 二子城

南北朝時代、二子・和賀氏の和賀長義(和賀薩摩守長義)は南朝に味方しますが、1340年頃に 鬼柳義綱と北朝に寝返り、引き続き南朝に与した須々孫氏を攻撃しています。
そして、1352年、須々孫行義(須々孫越前守行義)は没落しますが、和賀一族の争いは絶えなかったようで、和賀氏の嫡流が、苅田氏系から多田氏系に変わります。





1401年には、関東管領から和賀時義(和賀下総入道時義)に和賀一族の惣領権と和賀郡一円の支配権を認めており、鬼柳氏は和賀一族の中心を占めるに至り、和賀惣領家の本拠を二子城に定めました。
しかし、一族での争いは絶えなかったようで、そのまま戦国時代に突入し、北からは南部氏の侵攻をうけるようになります。

飛勢城

1573年、南部晴政が攻めてきて、稗貫郡太田付近で合戦となり、和賀勢は敗れました。
1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、和賀義忠(和賀義治)は使者だけを出して、小田原城に参陣しなかったため、奥州仕置で和賀氏は領地没収となりました。

飛勢城

和賀郡は豊臣家の蔵入地(直轄領)となったため、和賀義忠との庶兄・稗貫広忠ら2000は葛西大崎一揆に同調して蜂起し、和賀・稗貫一揆を起こします。
そして、浅野長政の家臣・後藤半七が守備していた二子城を奪還しました。
その後、豊臣家から命を受けた南部信直の雪で撤退を余儀なくされ、鳥谷ヶ崎城(花巻城)の浅野重吉も攻略しています。
このようにうまく行くかと見えましたが、豊臣勢は鎮圧に出ます。

二子城

豊臣秀次、徳川家康、上杉景勝大谷吉継前田利家前田利長石田三成佐竹義重、宇都宮国綱、伊達政宗最上義光小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季津軽為信らの奥州再仕置軍が奥羽に入ると、蒲生氏郷や浅野長政と合流して一揆を平定しながら北進しました。
和賀義忠は逃走の途中に、落ちの者狩りに遭い、殺害されたもされます。
その後、和賀・稗貫郡は南部家の所領となり、二子城には川村左衛門四郎が入りましたが、1600年、関ヶ原の戦いとなります。





和賀義忠の子とされる和賀忠親(わが-ただちか)は、伊達政宗の世話を受けていましたが、これを好機とみて、岩崎一揆を起こします。
どうやら、野望がある伊達政宗の密命を受けての蜂起だったよう、陸奥・岩崎城を占領しました。
そして、花巻城を夜討ちして急襲しましたが、北信愛や柏山明助、援軍の北信景らの抵抗により、あと一歩のところで陥落させることはできませんでした。
しかし、更に伊達勢の水沢城主・白石宗直に支援を受けると、二子城や大迫城の田中藤四郎を攻略しましたが、戦況が悪化し、城を捨てて飯豊城から、最後には岩崎城に退いています。

二子城

その後、南部利直ら主力が花巻城に入り、1601年になって岩崎城を攻撃しました。
桜庭直綱らの猛攻にも1ヶ月以上耐えた和賀忠親(和賀又四郎忠親)でしたが陥落して逃走を図ります。

飛勢城

しかし、和賀忠親は近臣の蒲田治道、筒井喜助、齋藤十蔵とともに自害しました。
徳川家康が伏見城に来るようにと呼び出したため、その護送の途中、伊達政宗に暗殺されたとも、伊達家に迷惑を掛けないよう自刃したともされます。
墓所は陸奥国分尼寺にあります。
和賀忠親、享年36。

二子城

その後、陸奥・岩崎城には、戦功があった南部家の柏山明助が入っていますが、二子城は使われなくなったようです。

花巻城の近くにある鳥谷ヶ崎神社には、1614年に移築されて花巻城の搦手門になっていたと言う、立派な二子城門が更に移築(現存)されています。

 二子城門(移築)

となると、陸奥・二子城は、1614年には廃城になっていたのでしょう。





和賀忠親の妻は、その後も残党を率いて江刺郡の白旗城に籠りました。
そして、男装して葦毛の馬を駆けて自ら陣頭指揮を執り抵抗しましたが、衆寡敵せず南部勢の弓矢鉄砲の前に倒れています。
その姿は尼将軍として称賛されたとも言います。
ちなみに、同じく岩崎一揆で命を落とした、毒沢城主・毒沢義森の孫娘・勝女姫は、のち伊達政宗の側室になって、後世、伊達騒動を巻き起こす伊達宗勝を産んでいます。
ちなみに和賀忠親の子・和賀義弘は、のちになって仙台藩士120石となっており、旧臣の多くも伊達家が受け入れています。

陸奥・岩崎城 和賀・稗貫一揆や岩崎一揆の舞台
毒沢城(毒沢館) 伊達政宗の側室になった勝女姫のふるさとか?
陸奥・土沢城 盛岡藩の重要拠点 十二鏑館はどこに?
花巻城 稗貫氏の本拠地と稗貫広忠
日本のお城がある場所が割るかオリジナル地図





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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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