岩手県

岩谷堂城 江刺氏の本拠地

岩谷堂城

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陸奥・岩谷堂城

陸奥・岩谷堂城(いわや-どうじょう)は、岩手県奥州市江刺区岩谷堂字館山にある城跡で、別名を柄杓城、柄杓ヶ城、江刺城、岩谷堂要害とも言います。
標高は115m、比高は70mほどの山城で、館山史跡公園として整備されています。

何年か前に、はるばる新幹線で「えさし藤原の郷」を訪れた際に、人首川の西岸に、ずいぶん切り立った崖と申しましょうか、山があるな?とは思っていたのですが、当時は、そこが城跡だとは知らず、通り過ぎていました。
そのため、再訪となりますが、伊沢岩谷堂と混同しないよう注意が必要です。

諸説ありますが、最初の築城は、奥州藤原氏の祖となった藤原経清の砦であったされます。
その時代の住居跡なども発掘されており、藤原経清の館である豊田館、もしくは安倍氏が築いた鶴脛柵だと推定する説もあるようです。
もっとも、南の方に、陸奥・豊田館跡とされる場所もありますが・・。


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その後、鎌倉時代の初期になる1189年に岩谷堂城が再び出てきます。
豊島氏の庶流で武蔵・葛西城主であった葛西清重(かさい-きよしげ)が、奥州征伐での戦功により、奥州総奉行を命じられて、30万石とも言う陸奥国の胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿の五郡などを与えられました。
陸奥に入った葛西清重は、石巻城を築いて本拠地にしたとされますが、このとき、江刺郡には唐梅館主・千葉頼胤の3男・千葉胤道が岩谷堂城を築いて、初代の江刺氏になったとされます。
別の江刺氏出自の説では、葛西清親の弟・葛西清任が1262年に、江刺郡司・藤原重任(安倍氏)の養子になって江刺郡片岡村に入って江刺氏を称したともされます。

また奥南落穂集てせは、葛西氏5代の孫・葛西信詮の2男である江刺次郎信満が岩谷堂城主とあります。
このように、江刺氏の出自には諸説あり、よくわかっていませんが、概ね葛西氏の血筋であることには間違いなさそうです。


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江刺四郎三郎清昭が1331年に建立した、父母を供養する板碑が城跡にあるそうです。

ただし、南北朝時代には、付近の豪族と同様に、本家筋の葛西氏とは対立しており、葛西一族はなんども紛争を重ねました。

1495年、江刺隆見が葛西政信に敗れると、以後は、葛西氏の属城になっており、葛西政信の孫・葛西三河守重胤が岩谷堂城に入りました。

岩谷堂城

室町時代中期になると、江刺持重(江刺播磨守持重)の名がありますが、江刺持重は葛西家当主の葛西播磨守持重と同一人物と考えられ、葛西氏の惣領による影響が大きく及んでいることを物語ります。

1585年になると、江刺信時(江刺三河守信時)が謀反を企てのか、素行が悪かったのか?、葛西晴信から勘当され、浅井館で謹慎しました。
しかし、この頃には三戸城主の南部氏の家臣である九戸政実によって葛西領は侵攻を受けており、跡を継いだ江刺重恒(江刺兵庫頭重恒も、気仙郡にいる義兄の浜田安房守に組して叛乱を起こしました。
江刺家重臣の菊池右近・太田代伊予の父子は、江刺重恒を咎めたようで太田代伊予は討たれ、菊池右近はなんとか江刺から逃走したとされています。
なお、この頃の江刺氏は、幾つかの系統があったようで、江刺氏の一族じたいも争っており、家系図は混乱しており、江刺氏の誰が正式な岩谷堂城主であったのかよくわかりません。


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1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際に、葛西晴信は大崎氏との抗争もあり、小田原城に参陣しなかったため、奥州仕置で奥州・葛西氏は領地没収となりました。
これを不服とした葛西一族は、寺池城や佐沼城にて籠城しますが、このとき、江刺三河守胤虎、江刺兵庫介胤元(江刺重俊)の父子も加わっており、その後は不明です。

豊臣勢が岩谷堂城にやってくると、江刺重恒は城を明け渡しました。
その後、葛西氏の旧領は木村吉清(木村伊勢守吉清)が治めることになり、岩谷堂城には溝口外記が入っています。
しかし、葛西・大崎一揆となって、溝口外記は討死しました。
一揆鎮圧後は伊達政宗の所領となり、佐瀬伯耆・粟野九左衛門とも?が入ったようですが、のち重臣の桑折宗長(桑折摂津守宗長)か、その子である桑折政長が入りました。
桑折政長は、用水路の開削や湿地の干拓など、領地の整備を進めています。


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そのあと、江刺氏の重臣で三ヶ尻館主だった三ヶ尻加賀守が頑張ったとされます。
三ヶ尻恒逢(三ヶ尻加賀守恒逢)は、奥州仕置の軍監・浅野長政に対して、何度も懇願したところ、なんと江刺重恒は許されて、南部家の家臣に加わることになりました。
恐らく、江刺重恒は武勇も優れた武将だったのでしょう。
1500石にて南部信直が引き受け、稗貫郡の新堀城主になった模様です。

その後、伊達政宗は岩谷堂城を改修して、桑折氏が断絶したあと、母帯越中守、猪苗代長門守、藤田氏、古内氏(順番は諸説あり)、そして、1602年には古田重直を城主に据えました。
そのため、南部藩は陸奥・土沢城を大改修し、その城を江刺重恒に任せています。

1619年、一国一城令になると、岩谷堂城は「岩谷堂要害屋敷」と改称し、増田宗繁が入って岩屋堂館主になりました。
更に、1659年には、伊達家一門である岩城宗規(岩城左兵衛宗規)によって、城下町など大規模な改修がおこなわれました。
岩城宗規は伊達姓を称することを許され、以後、岩谷堂伊達氏として9代続いて、明治維新を迎えました。

現在、二の丸は岩谷堂高校グラウンド、三の丸は小学校となっていますが、城址では本丸跡に館山八幡神社が祀られており、中ノ郭が「館山史跡公園」になっています。
春からは桜やアジサイ、負期にはモミジの紅葉など、四季折々の景観も楽しむことができるとの事です。


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また、旧岩谷堂小学校のグラウンド東側に三瓶門、西麓の興性寺には二の丸裏門が移築現存している模様です。
※三瓶門は無くなったとの情報も。

交通アクセスですが、JR東北新幹線の水沢江刺駅から路線バスにて10分、えさし藤原の郷行きの江刺バスセンターバス停で下車して、徒歩15分となります。
JR東北本線の水沢駅からタクシーの場合約20分です。
観光バスも止められる館山史跡公園駐車場が完備されていますので、レンタカーでも訪問しやすいですが、道はわかりにくいので、カーナビ必須です。


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今回、3月末日に、クルマにて、南側の夢乃橋を渡って向かおうとしました。
しかし、夢乃橋は、どうやら冬期通行止のようでして、渡ることができませんでした。
北側から行きなおすのには、更に坂道を降りて、また、別の方角なら登り直しと、遠回りすることから、訪問を断念し、麓からの写真撮影に留めましたことはとても残念です。
あと1歩のところで、撤退したことになります。

駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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