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有岡城(伊丹城) 伊丹駅前に残る城跡と伊丹親興や池田元助も

有岡城(伊丹城) 

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摂津・伊丹城(いたみじょう)は、兵庫県伊丹市に平城で、伊丹有岡城、有岡城、在岡城(ありおかじょう)とも言い、国の史跡に指定されています。

築城年代ですが、南北朝時代には伊丹氏の居城となっていました。
伊丹氏(いたみし)は、平安時代前期の貴族・藤原利仁(ふじわら-の-としひと)の末柄とされ、1315年に六波羅の命にて幕府使者となった伊丹親元が初見です。
この頃から細川氏の被官で、畠山国清に味方した伊丹宗義(伊丹左衛門四郎宗義)が伊丹城に籠城したとあります。


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戦国時代の1527年、伊丹元扶(いたみ-もとすけ)は、三好勝長、三好政長らの攻撃に屈して伊丹城を開城し、1529年にも波多野秀長の子・柳本賢治から攻撃を受けて伊丹元扶は討死し伊丹城が落城しました。
まだ幼かった弟・伊丹康直(いたみ-やすなお)は、放浪の身とりますが、のちの1558年に今川義元の仕官し、今川家が滅亡したあとは水軍衆として武田信玄に仕えています。

なお、亡き伊丹元扶の子とされる伊丹国扶(いたみ-くにすけ)が、細川高国の支援を受けたようて、伊丹城主として復帰します。
しかし、それも束の間、1531年6月に、細川高国・浦上村宗に味方した伊丹国扶は、細川晴元や三好元長との決戦「大物崩れ」にて討死しました。

以降、伊丹氏は阿波細川家出身の管領・細川晴元に降り、伊丹国扶の従兄弟である伊丹親興が伊丹城に入りました。

伊丹城

伊丹親興

伊丹親興(いたみ-ちかおき)は、伊丹城を再建し、北摂津で勢力を盤石なものにします。

1541年9月には、細川晴元の部将である三好長慶に反して、摂津・一庫城の塩川政年を救援しました。
そして、細川晴元、三好長慶に協力して細川氏綱らと戦っています。
1548年、三好長慶が主君・細川晴元に叛旗を翻すと敵対し、伊丹城を包囲されましたが、1530年に和睦しています。

伊丹城

以後は、三好長慶に従って軍勢を出していましたが、三好長慶が病死して、三好三人衆と松永久秀三好義継の間で権力争いとなると、以降は松永久秀に味方しました。

1566年5月には、松永久秀に従って、摂津・池田城池田勝正を攻撃していますが、その後、足利義親(足利義栄)に寝返っています。

織田信長足利義昭が上洛を果たすと、以降は織田家に臣従しました。
このように、常に強い勢力に属することを選択するように見受けられますが、織田家からは伊丹3万貫を安堵されています。

そして、池田勝正、和田惟政と共に「摂津3守護」となりましたが、1573年ごろから織田信長を見限り、三好三人衆に接近しています。
また、高槻城の和田惟長が高山友照高山右近に殺害されると、池田城の荒木村重が織田信長に寝返り、高山氏は荒木家に従属しました。
荒木村重は織田家に臣従し、1574年、織田信長の命を受けた荒木村重が伊丹城を攻撃し落城となり、伊丹氏は滅亡しています。

伊丹城には荒木村重が入り、有岡城と改名され、壮大な城郭へと大改修されていきます。

伊丹城

ちなみに、伊丹親興は浪人したとも討死したともされますが、その子とされる賀島城主・伊丹忠親(いたみ-ただちか)は、浪人した模様です。
しかし、1582年に本能寺の変にて織田信長が横死すると、羽柴秀吉の直臣となりました。
関ケ原の戦いでは、黒田長政の軍勢にその名が見られますが、討死しています。享年46。
しかし、伊丹氏は、家臣に恵まれなかったのか?、討死が多いと言う印象です。

有岡城

さて、伊丹城ですが、荒木村重が城主になると、天守台も設置されますが、これは日本で最初の天守台を持つ平城と言う事になります。

有岡城

有岡城は南北1.6キロメートル・東西800メートルに及ぶ城下町を城内に取り込んだ「惣構え」の構造で、北の岸の砦、西の上臈砦、南の鵯塚砦などが含まれます。
荒木村重は、キリスト教を保護しており、城下には教会も多かったと言います。

1578年、播磨・三木城主の別所長治が織田信長に謀反を起こして籠城すると、荒木村重も毛利家の援軍を期待して、有岡城で籠城し、織田家に背きました。

この時、羽柴秀吉に従っていた黒田官兵衛(黒田孝高)が、説得するために有岡城に赴きましたが、捕えられて城内の土牢に幽閉されています。

織田信長は、有岡城を包囲するべく池田城・塚口・食満・加茂・倉橋・原田・刀根山などに、滝川一益明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝らが陣を構え、長期の籠城戦「有岡城の戦い」となりました。
織田家の若手である万見仙千代が討死しています。

有岡城

しかし、毛利家からの援軍は来ず、1579年、荒木村重は妻子らを城のに残したまま、近習を連れて夜間に有岡城を脱出し、嫡男・荒木村次尼崎城に入りました。
そして、城主不在の有岡城は総攻撃を受けて、1579年末に約10ヶ月の攻防を耐えた城代・荒木久左衛門(池田知正)は降伏し、津田信澄が城の受け取りを行っています。
その時、捉えられた荒木一族は、女子供に至るまで処刑されました。

尼崎城にいた荒木村重は息子・荒木村次と共に、荒木元清花隈城に移り、花隈城の戦いを経て、最後は毛利家に亡命し、尾道にて隠遁したと伝わります。


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その後、織田信長は池田元助(池田之助)を有岡城主として配置しました。

池田元助

池田元助(いけだ-もとすけ)は、1558年に生まれた池田恒興の長男で、池田輝政の兄となり、母は荒尾善次の娘(善応院)です。
諱で読むと池田之助(いけだ-ゆきすけ)と言う事になります。
正室はなんと、斎藤義龍の娘です。

花隈城の戦いで荒木元清を破る功績を挙げ、織田信長から名馬を賜っています。
そして、父・池田恒興のもとを離れて、単独での大名となりました。
1581年には、羽柴秀吉と淡路の岩屋城を包囲し、由良城(由良古城)にて籠城していた安宅清康を、家臣・伊木忠次と蜂須賀正勝が説得しして開城降伏させています。
そして、池田勢が淡路に駐屯しました。
1582年、明智光秀が本能寺の変にて織田信長を討つと、中国大返しで摂津に戻ってきた羽柴秀吉に池田家は協力します。
そのため、山崎の戦いで、池田元助は活躍しました。

清洲会議にて、父・池田恒興は大坂・尼崎・兵庫にて12万石となり、兵庫城を新築しました。
この時、弟・池田輝政が尼崎城に入っています。

1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも戦功を挙げ、父・池田恒興が美濃・大垣城主になると、池田元助は有岡城を去り、岐阜城に入りました。
このように、将来を約束された池田家の嫡男・池田元助でしたが、小牧・長久手の戦いにて、池田恒興も討死し、井伊直政の鉄砲隊により、池田元助も戦死しました。享年26とされます。

なお、このあと伊丹は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の直轄領となり、有岡城は廃城となっています。


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黒田官兵衛が幽閉されていた土牢があった場所は不明となっていますが、史跡公園として整備されています。
ただ、規模的には大きくなく、有名な城にしては少し残念です。
見学するのに時間が少しで済みますので、その点はありがたいですが・・。

有岡城(伊丹城)への交通アクセスですが、電車の場合、JR福知山線の伊丹駅下車ですぐの駅前が城跡です。
クルマの場合、関西スーパー・アリオ店の地下駐車場が便利です。
1時間300円ですが、2000円以上買い物すると1時間無料になります。

荒木村重の詳細はこちら
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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