高槻城(たかつき-じょう)は、大阪府高槻市にある平城です。
別名は、久米路山龍ヶ城、入江城(いりえ-じょう)とも言います。
最初の築城年代はよくわかっていませんが、平安時代の990年に近藤忠範が久米路山と呼ばれた丘に館を築いたとされますが、当時の位置や規模などは不明です。
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その後、文献に出て来るのは、足利尊氏に属し、駿河国入江荘より入った入江春則(入江左近将監春則)が高槻城主となっています。
ただし、高槻城の近藤宗光が、後醍醐天皇の笠置臨幸に味方して討死したため、入江春則が、近藤宗光の娘を妻にして、高槻城に入ったとあります。
なお、足利尊氏は、直系は入江を称するように命じたとされ、庶子が高槻氏を称するようになった模様です。
戦国時代になると入江氏は管領・細川政元の被官となっており、1527年には、桂川原の戦いにて波多野稙通に敗れ、山崎城に詰めていた摂津守護代・薬師寺国長が高槻城に逃亡したと言う記録もあります。
1541年には高槻城主の入江政重が討死しています。
1549年には、入江元秀(入江春継・入江春景?)が細川氏綱に属して戦っており、細川晴元は近江に逃れています。
しかし、細川氏が弱体化したため、以後は進出してきた三好氏に従うようになります。
1569年1月、三好三人衆が織田信長の留守を狙い、室町幕府将軍になっていた足利義昭の居所である京都・六条の本圀寺を襲撃します。
このとき、入江氏は三好勢に組しており、京の異変に駆け付けようとした、摂津守護で池田城主の池田勝正、伊丹城主・伊丹忠親らの進軍を阻止するため、500余騎を率いて出陣しました。
そのため、池田勢、伊丹勢は迂回して京へ向かっていますが、池田八郎・同周防守、荒木摂津守ら一部が反撃してきたため、入江春景は入江城(高槻城)に籠城しました。
その後、織田信長の電撃的な反撃に出て京に入り、入江春景は織田家に降伏しました。
しかし、許されず、死となっています。
高槻城は、芥川山城の和田惟政に与えられることになりましたが、城には、入江春景の弟とされる入江秀升らが高槻城でまだ頑張っていたようです。
そのため、和田惟政は家臣の高山彦五郎(高山右近)が降伏勧告の使者となって説得しました。
入江秀升は、和田惟政の娘を妻に迎え、諸役を免じられると、高槻古城跡に住み、子の入江春元は大庄屋をつとめたとあり、ご子孫は代々高槻に居住しています。
このように、入江氏は滅亡しましたが、誅死された入江元秀の子である入江景秀は、高槻城が落城したあと浪人しましたが、勝龍寺城主・細川藤孝の家臣となっています。
1600年、関ヶ原の合戦に際して、田辺城の戦いになった際には、細川幽斎と共に籠城し、入江景秀は最重要である大手口の守備を任されています。
更に入江景光も細川家に仕え、細川忠興の近習として、一色義定の手討ちや、小田原攻めでも活躍した模様です。
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さて、和田惟政は高槻城を本城にすると、堀を巡らすなどの改修を行いました。
ルイス・フロイスとも親交があったようで、キリスト教にも理解をしめしていました。
しかし、1571年、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため、和田惟政は茨木城の茨木重朝、摂津・郡山城の郡正信らと出陣し白井河原の戦いとなります。
これに対した池田勢の荒木村重・中川清秀は、伏兵などを用いて撃退し、鉄砲隊も活用すると、茨木重朝と郡正信を討ち取りました。
また、中川清秀が輪だ惟政の首を取っています。
荒木村重らは、敗走した子の和田惟長を追うと高槻城を包囲しました。
織田信長はこの合戦が行われることを事前に知らなかったようで、佐久間信盛や明智光秀を派遣して調停しています。
こうして停戦にはなりましたが、17歳と若年だった和田惟長は、叔父で後見役の和田惟増を殺害したほか、芥川山城主となっていた高山友照と高山右近を暗殺する計画を立てます。
そして、1573年4月、高槻城に呼び出された高山親子でしたが、計画の事は事前に察しており、斬り合いとなって和田惟長を追放しました。
和田惟長は深手を負っており、逃亡中に亡くなったとされていますが、高山右近も重傷を負った言います。
こうして、高槻城は高山親子の所領となり、高山友照が宣教師らの布教を保護したため、高槻ではキリシタンが増加しました。
高槻城の修築工事を行い、堀が2重にし、石垣や塗り壁などを施しています。
1576年には、念願であった教会も建てましたが、逆に、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けています。
その後、池田氏が滅んで荒木村重が有岡城主となると、織田信長の命にて、高山氏は荒木村重の与力となりました。
しかし、1578年10月末、荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻して、有岡城にて籠城します。
高山右近も、荒木家に人質を取られていることから最初は荒木村重に従いましたが、織田信長は宣教師らに高山右近を説得するようにと命じます。
最終的には、高山右近は、剃髪して領地・俸禄・家臣ら全てを織田家に返上すると言う策にて降伏し、父・高山友照ら有岡城の人質が、荒木村重によって処刑されることはありませんでした。
その後、茨木城の中川清秀も織田家に降伏し、有岡城の戦いは、荒木村重の逃亡により終結しますが、逆に、荒木村重の一族らを織田信長は許さず処断しています。
高山右近は再び高槻城主として復活し、新たに摂津国芥川郡を与えられ2万石から4万石に加増となりました。
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1582年6月2日、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討つと、高山右近と中川清秀は、明智家の要請には答えず、羽柴秀吉の幕下に入ります。
山崎の戦いで、高山右近は先鋒を務め、中川清秀や池田恒興と共に明智光秀を敗走させました。
そして、安土城下にあった協会を高槻城下に移しています。
この頃には、領内に20の教会があり、キリスト教徒は18000人に及んだと言いますが、これは高槻の人口の60%以上に当たります。
豊臣秀吉が大坂城の築城を開始すると、高槻は直轄領となり、高山右近は6万石にて明石の船上城に移っています。
しかし、宣教師追放令に逆らい、キリスト教を辞めなかったため、大名の地位を追われることになりました。
高槻城には代官として新庄直頼らが入りましたが、1600年、関ヶ原の戦いの後には、徳川家の直轄地となります。
徳川家の代官として、青山忠成が入っており、1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣では、高槻城が補給基地になっています。
豊臣秀頼が自刃して豊臣家が滅亡すると、1615年6月には、内藤信正が4万石で高槻城主となりました。
内藤信正は高槻城を改修し、本丸・二の丸を建設し、三層の天守も設けられたと考えられます。
一国一城令で茨木城などは廃城となりましたが、1617年には、下総・守谷城より土岐定義が2万石で高槻に入り、高槻城は、三の丸、出丸など本格的な整備が行われ、完全な近代城郭として改修されました。
ついで松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、1649年に永井直清が36000石で高槻城主になると侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発など行いました。
そして、永井氏13代の支配を経て明治時代を迎えています。
現在は、高槻城跡の一部が城跡公園として整備されており、石垣や天守台が模擬復元されています。
ただし、高山右近の銅像がある公園は、弁財天曲輪でして、本丸があった場所は、槻の木高校のところになりますが、北西の角に石碑があるだけです。
城主の住まいとなっていた二の丸跡の有料駐車場をあてにして、茨木城から訪問したのですが「発掘調査」しており立入禁止になっていました。
しろあと歴史館にも駐車可能です。
野見神社には、高槻城の移築城門(唐門)があり、本行寺にも城門が移築されているそうですが、予定外の訪問であったため、欠落してしまいました。
交通アクセスですが、電車の場合、JR東海道本線の高槻駅から徒歩約15分、阪急電鉄の京都線「高槻市駅」からも徒歩約10分と訪問しやすいです。
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ちなみに、高槻城跡からはるばる北へと、山の中を車で30分走らせると、高槻カントリークラブ(ゴルフ場)の入口付近に、高槻城を模した建造物と高山右近の像もあります。
気が付いたのですが、台風21号(2018年9月)の影響で、丹波の山の中は下記のような感じでして・・。
台風で杉の木が大量に倒れていたり、茨木城の周辺では、2018年6月の大阪府北部地震で民家の屋根が多数破損していたりと、災害続きに圧倒され、高槻カントリークラブの建物にも気が付きましたが、そのまま通り過ぎてしまいました。
被害に遭われた皆様には、謹んでお見舞いを申し上げる次第です。
・有岡城(伊丹城) 伊丹駅前に残る城跡
・茨木城 茨木長隆の居城も今はその面影なし
・中川清秀~荒木村重傘下の有能な武将
・和田惟政とは
・三好長逸の解説 松永久秀と双璧を成す三人衆筆頭
・荒木村重とは~池田家家臣から摂津37万石の大名に出世した豪傑
・高山右近~60000石になったキリシタン大名
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