大物城(だいもつ-じょう)は、兵庫県尼崎市大物町の平城です。
近くには江戸時代になって建造された尼崎城があるため、大物城のことを尼崎古城と呼ぶ場合もあります。
この尼崎は古くは「大物浦」と呼ばれる港町で、平安時代末期には源頼朝から討伐を受けた源義経が、大物主神社に弁慶が隠れて、大物浦に停泊していた佐伯惟栄の水軍を頼ると、瀬戸内海へ出航した場所としても知られます。
その後、大物城がいつできたかは不明ですが、兵庫県あたりの戦国時代を色々と調べていますと「大物崩れ」(だいもつ-くずれ)と言う言葉をよく目にします。
戦国時代初期の1531年にあった合戦の名前ですが、天王寺の戦い・天王寺崩れとも言います。
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この頃、曲がりなりにも第12代将軍・足利義晴を補佐して室町幕府を担っていた管領・細川高国は、権力を失い近江に逃れていましたが、柳本賢治が播磨出陣中に急死すると、備前・三石城主である備前守護代・浦上村宗の協力が得られるようになります。
この大義名分にて、浦上村宗は1530年播磨を統一し、細川高国と共に摂津に侵攻すると池田城の池田久宗(池田信正)を攻略しています。
またも薬師寺三郎左衛門が守っていた大物城を陥落させたともされます。
これに対し、阿波の細川氏が保護していた足利義維(あしかが-よしつな)を擁立する細川晴元は、堺を本拠として「堺公方府」という擬似幕府を創設していました。
そのため、細川高国と細川晴元は激しく対立し、約2ヶ月間、中嶋・天王寺周辺で一進一退の攻防(中嶋の戦い)に発展していたのです。
そして、播磨守護で置塩城主の赤松政祐が細川高国の援軍として駆けつ、西宮の神呪寺に入りました。
ところが、赤松政祐は最初から寝返る予定で、細川高国・浦上村宗を背後から襲撃します。
そこを三好元長を総大将にした細川晴元側の軍勢が押し出して奇襲攻撃し、合戦になりました。
その結果、浦上村宗は討死し、大敗を喫した細川高国は戦場を離脱して、摂津・大物城に逃げ込もうとしました。
なお、大物城は、急造の城だったようで、柵を巡らした程度の簡素な作りだった模様です。
しかし、既に赤松氏の手は伸びており、尼崎にあった藍染屋・京屋にあった藍瓶の中に隠れましたが、探索していた三好一秀に捕縛されたと言います。
そして、細川高国は尼崎・広徳寺にて自害させられました。
戦局が大きく崩れて、細川高国が死去したことから、地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった由縁です。
と言う事で、阪神電車の大物駅近くには、摂津・大物城があったと言う事はわかっています。
現在の、大物主神社から北側にあったと推定されているようです。
そして、1582年、本能寺の変のあと、豊臣秀吉が台頭すると、尼崎古城はその配下に置かれ、建部寿徳(たけべ-じゅとく)が3万石の尼崎郡代(代官)として置かれています。
その前には、摂津・有岡城主となった荒木村重の領地であり、尼崎城には子の荒木村次が尼崎城主でした。
織田信長は、荒木村重の裏切に対して、荒木一族や郎党・家臣の家族など600名を尼崎の海岸で虐殺し、尼崎の城下を焼き払っています。
この荒木村次が入った城は、大物城であるともされ、諸説ありますが、大物城は古い尼崎城(尼崎古城)であるとされています。
のち、江戸時代の1616年に、戸田氏鉄が尼崎藩主になると、新しく尼崎城を新築しましたが、尼崎古城とは場所がずれていると言う認識になっている模様です。
しかし、日本全国の城跡を見て回っていますと、この程度、古い時期の城跡と、新しい時期の城跡が、ズレているケースは多々あります。
よって、私が拝見する限りは、大物城跡も新しい尼崎城跡も、両方とも総称として「尼崎城」で良いのではと感じます。
今回は、天守が復活した尼崎城から訪問させて頂きました。
「大物崩れ」の石碑と案内板は、大物駅の北口にある交番の横にありますが、場所がわかりにくいので、当方のオリジナル地図でもわかるようにしてあります。
大物城の遺構は残されていませんが、歴史上では大変意義のある場所です。
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