京都府

丹波・山家城(山家陣屋) 和久義国や谷衛友

丹波・山家城

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丹波・山家城(やまが-じょう)は、京都府綾部市広瀬町にある山城で標高は236m、比高130mほどになります。
別名は甲ヶ峰城、左衛門屋敷とも呼ばれているようです。
最初の築城は、1563年に和久義国とされます。
和久義国(わく-よしくに)は、丹波・横山城主である塩見頼勝(しおみ-よりかつ)の4男(3男とも)で通称は和久左衛門佐と言いました。
本貫は、福知山の和久城で、山家城は支城と言う事になる模様です。
子に和久長利(わく-ながとし)がいます。


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また、丹波・八木城の内藤宗勝が何鹿郡に進攻すると、甲ケ峰城(山家城)主・和久左衛門佐と「和藤の戦い」になりました。
1563年、和久氏の被官・白波瀬肥前守が、計略をもって内藤宗勝(松永長頼)を討ち取ったと伝わりますが、諸説ありこれまた不明瞭です。

丹波・山家城

1565年には、黒井城主の赤井直正が攻め込み、内藤家の援軍を受けますが、父・塩見頼勝が討死してしまいます。
この時、黒井城を攻めた内藤宗勝(松永久秀の弟・松永長頼)が討死したともされます。
丹波・鬼ヶ城も落城し、和久城を捨てた和久義国と和久長利は、山家城へ移った模様ですが、時期に関しては不明瞭です。

丹波・山家城

その後、和久氏は山家城を維持したようですが、1579年、明智光秀の侵攻を受けて落城しました。
和久氏は没落し帰農したと伝わります。

地元では、中世・山家城を甲ヶ峰城と呼び、近世・山家陣屋のことを山家城と呼んで区別しているようです。

山家陣屋

明智領になったあと、1582年、本能寺の変となります。
そして、羽柴秀吉に従っていた播磨・平田城主である谷衛友(たに-これとも)が山家16000石にて入封しました。

谷衛友

谷衛友は、斎藤道三の家臣・谷衛好(たに-もりよし)の3男で、斎藤龍興が美濃から逃亡すると、織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えていました。
しかし、その父が、1579年からの三木城の戦いにて毛利勢の生石中務少輔から襲撃され、討死しました。(享年50)
そのとき、勇猛果敢な若武者、17歳の谷衛友は、初陣にも関わらず、父を倒した室小兵衛をその場で返り討ちにし、父の首を奪い返す武勲を挙げます。
そのため、織田信長より称されて、加増だけでなく感状と家紋「五三の桐」を賜りました。
それらの功績もあったことから、丹波・山家城主になった訳です。

丹波・山家城

その後、豊臣家の合戦に従軍すると、特に九州攻めの、豊前・厳石城の攻撃で一番乗りを果たしています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して、丹波・福知山城主の小野木重次らと西軍として、細川藤孝(細川幽斎)の丹後・田辺城攻撃に参加しました。
しかし、歌道の師匠である細川幽斎への攻撃は緩く、ほとんど戦うことなく傍観していたと伝わります。(田辺城の戦い
田辺城に向けて、空砲を撃っていたと言い「谷の空鉄砲」という言葉が残っています。
石田三成が敗れると聞くと、今度は東軍として福知山城の攻撃にも加わるなどしたため、細川忠興本多正純の仲介を受けて、徳川家より所領安堵となっています。
また、細川家が豊前・中津城に移る際には、山家領内を通過すると言う事で、城下の渓谷に橋を架けるなどし道を整備したと言います。
この橋は「肥後橋」と呼ばれ、橋から城に向かう道も「肥後坂」と呼ばれています。

谷衛友は、1615年、大坂の陣にも参陣して徳川秀忠の御伽衆を務めました。
その後、寛永4年(1627年)に死去。享年65。
家督は、4男・谷衛政が継いで、丹波山家藩の第2代藩主となり山家陣屋で政務をとったようです。
なお、外様大名で京にも近かったですが、珍しく、山家藩は谷氏が13代、明治維新まで続きました。


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また、京都が近かったことから、谷家は公家・園家を通して皇室との縁が深く、現在の皇室にも谷家の血が入っています。

山家陣屋があった場所は、現在、山家城址公園と言う名称で整備されており、無料駐車場もあります。
また、トップに掲載した模擬城門が建てられていて、2階が資料館になっています。
ただし、資料館は普段閉まっていますので、もし、見学希望の場合には、事前に山家郷土歴史資料館委員会事務局に予約が必要です。
また、近くには、谷氏の祖先を奉った谷霊神社も近くにあります。


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交通アクセスは、JR山陰本線・綾部駅から、あやバス上林線に乗車して「山家バス停」下車、徒歩15分となります。
場所は当方のオリジナル地図でもわかるようにしてありますので、よければご活用頂けますと幸いです。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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