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神戸城の解説~伊勢・神戸氏の本拠地と神戸具盛(7代)「伊勢・沢城」も

神戸城

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神戸城

神戸城(かんべ-じょう)は三重県鈴鹿市神戸にある平城で別名は本多城とも言い神戸氏の本拠地となる。
神戸氏は伊勢・関氏の一族で関氏6代・関盛政が正平22年(1367年)に5人の子を領内の伊勢・亀山城、神戸城、伊勢・峰城・鹿伏兎城、伊勢・国府城に分家させたうちの長男・関盛澄が神戸郷に伊勢・澤城(神戸西城、伊勢・沢城)を築いた神戸盛澄を称したのが始まり。

伊勢・澤城(神戸西城、伊勢・沢城)

そして4代目の神戸具盛が神戸城を築いたとされる。
この4代・神戸具盛(かんべ とももり) は諸説あるが父は伊勢国司・北畠家の北畠材親とされ、その次男であった。(北畠政郷の末子ともされる)
幼いころから京都・相国寺に侍童として出仕していたようだ。

神戸城

一方で神戸氏第3代の神戸為盛の妻は北畠教具の娘であったが子に恵まれなかった。
そのため、北畠材親の子で京にいた神戸具盛を養子に迎え家督を譲った。
神戸下総守具盛を歓迎しない神戸一族との確執もあったが家中を収めると、天文年間(1532年~1555年)神戸城を新築して本拠を移したと言う事になる。
更に神戸具盛は娘2人を神戸家六奉行のひとりである伊勢・高岡城の山路紀伊守に嫁がせ、次男は北勢の赤堀氏の養子に送るなどし勢力回復を図った。


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1536年、三河・岡崎城主である松平広忠を阿部定吉(阿部大蔵定吉)が手助けして吉良持広(三河・東条城)の所領がある伊勢・神戸城付近に一時逃れさせている。

1551年、神戸具盛は死去し、家督は5代・神戸長盛が継いだが1552年に死去。
そして、神戸長盛の嫡男・神戸利盛が6代となり武名を挙げているこれまた1559年に死去した。(23歳)
こうして神戸氏の7代となったのが神戸具盛となる。
<注釈> 4代と7代の神戸具盛は同姓同名なので混同しないよう注意が必要。

神戸具盛(7代)

神戸具盛(かんべ とももり) は戦国時代の武将で生年は不詳。
5代当主・神戸長盛の次男であり最初は寺に出され土師・福善寺の住職になっていた。
しかし、1559年に兄・神戸利盛(6代)が死去したため還俗して神戸氏7代当主になった。
前述したとおり、4代・神戸具盛と同名のため、7代の神戸具盛は神戸友盛と書く場合もある。
不仲だった関氏とは、六角家の重臣で日野城主である蒲生定秀の娘・2人を神戸具盛と関盛信の妻に迎えることで仲を取り戻した。

神戸城

伊勢・浜田城を長野勢に包囲された浜田城の戦いで、神戸具盛(神戸友盛)は盟友である赤堀氏に味方して援軍を送っている。
また、神戸氏の与力である茂福城の朝倉盈豊が羽津城主・田原国虎から攻撃を売れると軍勢2000騎を率いて駆け付けた。

神戸城

1567年、稲葉山城を落とした織田信長は、逃走した斎藤龍興を追って伊勢へ侵攻開始し北勢四十八家の諸城を攻略開始した。
神戸具盛は重臣・山路弾正らと織田勢を撤退させたが、永禄11年(1568年)に再び織田勢が侵攻すると降伏。
娘の鈴与姫と9歳・織田信孝(織田信長の3男)の結婚を承諾し婿養子として迎えた。
織田信孝(神戸三七郎)は元服したのち神戸信孝と名乗っている。
なお、織田家からは乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役、その他岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門らが派遣された。
そして、伊勢の関氏一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らも織田信孝(神戸信孝)の与力に組み込まれたほか、峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水・野々懸彦之進・吉川九兵衛・岡本氏・長尾氏・神戸氏・安井氏・可児氏・林氏などが神戸氏の家臣に加わっている。

また1568年、足利義昭を奉じて上洛するため織田信長が近江守護・六角義賢と六角義治を攻撃した観音寺城の戦いにて、神戸具盛は浅井長政や松平信一らと参じた。
このとき、神戸具盛は近江・日野城の蒲生賢秀を説得して降伏させると、蒲生氏郷が織田家の人質として差し出されている。

しかし、神戸具盛は織田信孝(神戸信孝)を快く思ってなく、織田信長は神戸具盛を伊勢・沢城に隠居させた。
それだけで収まらず、1571年には蒲生賢秀に命じて近江・日野城にて幽閉としている。

1572年、15歳になった神戸信孝(神戸三七郎)は岐阜城にて元服して正式に神戸氏の8代当主となった。
そして、家督継承に反対した伊勢・高岡城主の家老・山路弾正忠を切腹させ、神戸氏の旧臣120人を追放。
その後、神戸家に仕えた家臣は480人であったことから「神戸四百八十人衆」と呼ばれている。

領内では神戸検地も行われ、神戸城には天守閣も築造され、城下では楽市楽座・伝馬制が敷かれるなどし、伊勢街道の宿場町として栄えたと言う。

神戸城

なお、同じ関一族で宗家になる関盛信は引き続き織田信孝(神戸信孝)に反抗的な態度をとっていたことから、1573年春、関盛信も近江・日野城にて幽閉となった。
このとき、関盛信の伊勢・亀山城は没収され織田信孝の所領となっている。

1582年、織田信孝が四国攻めの総大将となって大坂に赴くと、神戸具盛は許されて留守居となり伊勢・神戸城近くの伊勢・沢城にて隠居生活を送るようになった。
なお、本能寺の変で織田信長が横死すると後釜を狙った神戸信孝は織田姓に復した。

天正11年(1583年)賎ヶ岳の戦いの際に、柴田勝家と結んだ織田信孝は岐阜城にて挙兵。
しかし、柴田勢は敗れ織田信孝が知多半島の野間大坊で切腹となると、織田信雄の家老・林正武(林与五郎)が神戸城主になっている。
ただし、神戸氏の相続として、神戸具盛は林与五郎の嫡子・林十蔵に、織田信孝の室(神戸具盛の娘)を再嫁させて神戸氏を継承させた。


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1584年、織田信雄に従っている神戸正武が500を率いて伊勢・亀山城の関万鉄(せきまんてつ)父子を攻撃したことで小牧・長久手の戦いが始まった。
しかし、蒲生氏郷・滝川一益堀秀政・浅野長吉らの軍勢によって佐久間正勝らの伊勢・峯城が落城。
松ヶ島城、神戸城も陥落したので神戸正武(神戸与五郎)は、美濃に逃れ滝川一益が神戸城を占領した。
林正武(林与五郎)は美濃・加賀野井城に逃れたが嫡子の神戸重蔵(林重蔵)は討死。
捉えられた林正武(林与五郎)は斬首された。
神戸具盛は沢城を脱して織田信包を頼り安濃津城(伊勢・津城)に逃れている。

そして、生駒親正が4万1000石で神戸城主に就任。

神戸城

1590年、水野忠重が三河・刈谷城から移って4万石で神戸城主となった。
しかし、1595年に再び三河・刈谷城に戻って、代わりに織田信雄の家老だった滝川雄利が神戸城に入っている。
神戸城の天守(五重天守)は1595年に解体され桑名城に移築されると三重櫓となって神戸櫓と呼ばれた。

関ヶ原の戦いのあと、滝川雄利は常陸・片野城に移動したため、尾張・黒田城から一柳直盛が5万石で入封。

そして、関ヶ原の戦いのあと1600年10月26日、神戸具盛は死去した。

1602年、織田信孝時代からの神戸城の城下町が拡張された。
江戸時代の神戸城主としては一柳氏が伊予・西条城に移ったあと石川氏が務め、明治維新まで本多氏が城主となった。

江戸中期に本多忠統が神戸城を大改修しており、本丸を中心に二之丸、三之丸、西曲輪、南曲輪(藩主の厩と馬場を悌郭式に配置する縄張りとなった。

神戸城

神戸城跡は神戸公園として整備されており、本丸周囲では土塁や水堀なども残っている。
公衆トイレもあり見学所要時間は20分といったところ。

交通アクセス

神戸城への行き方だが、近鉄・鈴鹿線の鈴鹿市駅から徒歩で約10分。
神戸公園の無料駐車場を利用できるため、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面にてポイントしている。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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