京都府

丹波・八木城 丹波守護代の居城と内藤貞勝

丹波・八木城

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丹波・八木城(やぎじょう)は、京都府南丹市八木町と亀岡市にある複合梯格式の山城で、標高は330m、比高は220mと堅固です。
広大な山城で、丹波国では、黒井城丹波・八上城とともに丹波国三大城郭のひとつとされます。
最初の築城は不明ですが、1333年に足利尊氏が、打倒鎌倉幕府の後醍醐天皇に味方して丹波・篠村八幡宮にて挙兵し、赤松円心らとともに六波羅探題を攻めます。
このとき、内藤顕勝(内藤定房とも?)が味方して、その戦功によって船井郡を与えられ、1335年に八木を収め、詰の城として築城したとされています。
その後、1392年、室町幕府によって、細川京兆家の細川頼元が、摂津・土佐・讃岐・安芸のほかに丹波守護にもなると、丹波・内藤氏は、直属の家臣として八木城を本拠に統治しました。


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1431年、丹波守護代である香西元資が罷免されると、細川京兆家の被官である内藤信承が丹波守護代に就任します。
そして、丹波・内藤氏による丹波支配がはじまりました。

1467年、応仁の乱となり、西軍・山名氏の領国の但馬、因幡、伯耆、備後の軍勢が、細川勝元の息がかかる丹波に侵攻しました。
このとき、内藤元貞は国境の天田郡夜久郷にて、迎え撃ちますが敗走し、叔父の内藤貞徳らが討死しています。
その後、内藤元貞は軍勢を建て直し、京都に入ると嵯峨の天龍寺に火を放つなどし、舟岡山の戦いとなっています。

このように、応仁の乱にも深く関与しましたが、内藤貞正の代になると、1507年に主君の細川政元が暗殺され、その後は、細川高国に従っています。
内藤貞正は丹波勢を率いて三好之長ら阿波勢と、等持院の戦いも繰り広げました。
なお、内藤貞正の弟・内藤久清の系統からは、小西性を称する一族が出ており、のちキリシタン大名としても知られる小西行長を輩出しています。

丹波・八上城をの波多野稙通柳本賢治の兄弟が勢力を拡大させ、1527年に細川高国政権を倒すと、阿波出身の細川晴元が台頭し、丹波・内藤氏は衰退します。
内藤国貞(ないとう-くにさだ)のとき、1533年には波多野勢との戦いに敗れ、1538年には、波多野稙通・三好政長の攻撃を受けて丹波・八木城も陥落しました。

丹波・八木城

その後、三好長慶と細川晴元が対立すると、波多野晴通は細川晴元と結びます。
これに対して、内藤国貞は三好長慶に味方して、波多野氏の丹波・八上城を攻撃しました。
しかし、三好政勝・香西元成らの反撃を受けて、内藤国貞は本梅郷の戦いにて討死し、再び丹波・八木城は陥落しています。

その後、丹波・八上城を包囲していた松永久秀の弟・松永長頼が、丹波・八木城を奪還し、丹波・世木城主の湯浅宗貞が、内藤国貞の一子・千勝丸(内藤貞勝)を、園部城にて保護しました。
そして、松永長頼は、内藤貞正の娘を正室に迎えて、内藤家の名跡を継ぎ「内藤宗勝」と改名し、三好長慶から丹波方面を任されました。
ただし、千勝丸(内藤貞勝)が成長すると、丹波・八木城主になっていることから、内藤宗勝(松永長頼)は後見したようです。

なお、内藤宗勝(松永長頼)の子としては、キリシタンの武将として知られ、のちマニラ(フィリピン)に追放された内藤如安(ないとう-じょあん)や、内藤ジュリアと言う娘がいます。
ただ、このキリスト教に入信した武将と娘がいたことから、のちの世に、丹波・八上城のことは、史料も色々と書き換えられており、正確な歴史を知るのは困難になっています。


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松永長頼は、軍略にも優れた武将で、事実上、内藤氏の権力を得ると、1557年には、三好長慶と共に波多野晴通を降伏させ、ほぼ丹波を平定しました。
その後、若狭守護の武田義統に反抗していた若狭・高浜城逸見昌経を調略して、武田信豊と戦わせるなど、三好長慶のもとで能力を発揮しています。

しかし、丹波の攻略はなかなか進まず、1561年、越前の朝倉義景かせ武田義統に援軍を出すと、松永長頼は敗れたため、従っていた波多野氏や赤井氏などが反旗を翻します。
1565年、荻野直正の丹後・黒井城を攻撃しましたが、内藤宗勝(松永長頼)は討死しました。
その後、嫡子・内藤如安と、内藤貞勝の間で後継争いもありましたが、最終的に内藤貞勝が当主を継続し、内藤如安は執政の立場になっています。

そして、丹波では波多野秀治・荻野直正らが勢力を拡大して行きました。

なお、丹波・内藤氏は、以前から室町幕府に近い立場だったことから、内藤貞勝は織田信長と対立した足利義昭の要請を受けて、1573年、宇治の槇島城に2000の兵を派遣しています。
このとき、内藤如安と宇津頼重が内藤勢を率いました。
このように、丹波・内藤氏は、織田家に対して反対の立場を取ったため、1575年、織田信長は討伐の兵を派遣します。
そして、丹波衆の並河易家、川勝継氏、小畠左馬介らは織田家に従いました。
しかし、黒井城の戦いで明智光秀赤井直正に大敗した結果、この時、内藤家も救われています。
1577年、明智光秀は再び丹波に侵攻すると、八木城の戦いとなって丹波・八木城は陥落して、戦国大名としての丹波・内藤氏は滅びました。
内藤貞勝の死去に関しては不明でして、この時の城主は内藤有勝であったともありますが、この内藤有勝に関しても不詳です。
内藤如安は足利義昭に従ったあと、1585年頃から小西行長に使えるようになりました。

丹波・八上城は、こうして明智光秀の持ち城になり、一時、明智秀満が入城したとも伝わりますが、あまり整備されなかったようで、まもなく廃城になったと推測されます。


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丹波・八上城への交通アクセス・行き方ですが、JR山陰本線の八木駅からタクシー利用となります。

登城する場合、登山道は八木西小学校の南西側(高速側)にある春日神社付近からとなります。
京都縦貫道のガード下を抜けると、登山口がありますが、そのガード部分は大手門風になっていました。

丹波・八木城

こんなおもてなしは、ありがたいですね。
付近にある案内板の場所には、駐車スペースもありますので、当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。

湯浅宗福(湯浅宗正) 湯浅宗貞 丹波・湯浅氏
波多野秀治 明智光秀を苦しめた丹波の戦国大名
丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)と波多野氏の盛隆・八上城の戦い
黒井城 赤井直正(萩野直正)の戦国と春日局の誕生地
内藤如安 ナゾに包まれた八木城と丹波内藤氏の栄枯盛衰
神尾山城(本目城) 柳本賢治の解説も 波多野一族として奮戦する
福知山城のみどころ 塩見頼勝・小野木重勝も
内藤如安の解説「キリシタンの鑑」と称された松永久秀の甥
明智光秀とは?数奇なその生涯~本能寺の変と最後の地「明智藪」~詳細年表
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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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