越後・鳥坂城(とっさか-じょう)は新潟県胎内市にある山城で、白鳥城、鶏冠城、白鳥要害とも言います。
標高は298m、比高は258mとかなりの山城で、国の史跡(奥山荘城館遺跡)にもなっています。
城跡には曲輪(くるわ)、堀切、段切などの遺構が残っています。
越後・安田城と同様で、これまた、鳥坂城と書く城は越後国に2箇所あり、妙高市の越後・鳥坂城もありますが、ここでは、胎内市の越後・鳥坂城をご紹介させて頂きます。
最初の築城は定かではありませんが、平安時代末期の治承4年(1180年)に、桓武平氏の一族である城資永(じょう-すけなが)が越後守となって、奥山荘のあたりを知行しています。
このとき、詰の城としたのが、鳥坂城と考えられます。
普段、生活した館(城)は「奥山荘城館」(江上館)と言う遺構として、離れた場所に整備されています。
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城資永は、京にて平清盛に従い、検非違使(今で言うと警視庁の上官)を努めましたが、検非違使のなかでは筆頭であったとされ、北国では有力な豪族でした。
その後、吾妻鏡によると、1201年の「建仁の乱」で5月14日に「城の小太郎資盛、朝憲を謀り奉らんと欲し、城郭を越後の国鳥坂に構う」とあります。
これは、城資盛と言う武将が板額御前(はんがく-ごぜん)らと反乱を起こし、急ぎ帯曲輪に木柵を巡らすと、約1000にて鳥坂城に籠城し、佐々木盛綱らの討伐軍に抵抗したものです。
城資国の娘である板額御前は髪を結い上げ、矢倉の上から弓を放つなどして、討伐軍の佐々木盛季と海野幸氏が負傷しましたが、藤沢清親の放った矢が両脚に当たって捕虜になり鎌倉へ送られました。
なお、甲斐の浅利義遠が板額御前を妻にしたいと、2代将軍・源頼家の許しを得ました。
笛吹市境川町小黒坂には、巴御前と並ぶ女傑・板額御前の墓所と伝わる板額塚があります。
城資盛の消息は不明で、名族・城氏は滅亡しています。
2年前に実は、山梨の板額塚をお参りさせて頂いたことがありました。
・板額御前とは~鎌倉武士として戦った越後の女性武将で弓の名手
そのときは、大変失礼ながら、ふーん程度でしたが、今回、たまたま越後を訪れますと、その板額御前が活躍した鳥坂城にめぐり逢いました。
このように、日本各地を巡っていますと、ヒョンなことから接点があることがあり、それも城めぐり出張の魅力のひとつです。
鎌倉初期に、奥山荘は、三浦・和田義盛の一族である和田義茂が地頭となっていました。
鎌倉での和田の乱にて多くの一族は討死しますが、ひとり幕府側について戦ったのが和田義茂で、朝比奈義秀に討たれています。
その功績もあり、奥山庄の地頭職は妻・津村尼に安堵され、のち3男・和田時茂が当主になっています。
そして、建治3年(1277年)に北条、中条、南条に分割されました。
中条を相続した子が中条氏を称し、戦国時代には中条藤資が上杉謙信の筆頭家老となっています。
また、北条を称した庶子は、越後・黒川氏を名乗り、戦国時代には黒川清実を輩出しています。
一部は、会津に移ると黒川城を築城して、会津・黒川氏となりました。
南条氏はと言いたいところですが、南条氏ではなく、関沢氏を称したようです。
他にも、築地氏、長橋氏、羽黒氏、高野氏、金山氏などの庶子家を出しており、惣領制的支配を展開しました。
ただし、黒川氏と中条氏は仲が悪く確執を続けます。
時は流れて1426年、中条房資が揚北衆と一緒に、越後守護代・長尾邦景の配下である三条城主・山吉氏を攻撃します。
このとき、加地氏・新発田氏らは守護代方に寝返って、中条房資に反撃しました。
長尾定景・長尾実景が山吉氏の援軍として築地に着陣すると、中条房資は居館を引き払って河間城にて籠城していますので、鳥坂城は使われなかった模様です。
ただし、1453年には「鶏冠城をこしらえる」と、新城を築いたような表現があり「子孫においても捨てるべからざるものなり」と、ずっと使用するようにと書き残しています。
要するに、麓の館が本拠と言うよりは、鳥坂城をメインにした模様です。
中条藤資
中条藤資(なかじょう-ふじすけ)は、中条定資の子として生まれました。
1494年に父が討死し、家督を継ぎます。
永正4年(1507年)8月、越後守護代・長尾為景が、越後守護・上杉房能を急襲して自刃に追いむ下剋上を行います。(永正の乱)。
これに反発した揚北衆の諸氏に対して、中条藤資は長尾為景を支持しており、新守護の上杉定実に仕えました。
そして、9月、一族の築地忠基、揚北衆の安田実秀らと共に、長尾為景に反対している本庄時長の居城・本庄城を攻め落とし、本庄弥次郎を討ち取っています。
この戦功により、上杉定実から、奥山庄荒川保のうち上条分を恩賞として与えられました。
1508年5月、には、反為景である色部昌長の居城・平林城を陥落させる、色部昌長は長尾為景に誓書を出して降伏しています。
永正10年(1513年)8月、中条藤資と長尾為景は、血判起請文を交わし、中条藤資が仲介した安田実秀も血判起請文を交わしています。
なお、一時は上条定憲の反乱に与しましたが、最後には長尾為景に従っています。
長尾為景が亡くなったあとには、伊達稙宗の3男・伊達実元を、上杉定実の養子に迎えて、伊達氏の援助を受けて、越後守護の権力復活を狙いましたが、伊達晴宗や中野宗時による天天文の乱で頓挫しています。
その後、1548年、中条藤資は長尾為景の跡を継いだ、長尾晴景ではなく、その弟の長尾景虎(上杉謙信)を越後守護代に擁立しようと画策します。
まず信濃・中野城主で、景虎の叔父である高梨政頼と結んで、越後の国人らの調略を始めました。
ちなみに、中条藤資の正室は高梨政盛の娘です。
長尾景虎の補佐役である本庄実乃を始め、長尾景虎の母方の家である栖吉城主・長尾景信、箕冠城主・大熊朝秀、与板城主・直江実綱、三条城の山吉行盛らが賛成しました。
しかし、この動きが守護代・長尾晴景の知るところとなり、坂戸城の長尾政景や、長条藤資と対立する同族の黒川城の黒川清実らと争いとなりました。
しかし、1548年12月30日、この事態を憂いた守護・上杉定実の調停によって和議となり、長尾晴景は、長尾景虎を養子にした上で家督を譲って隠退しました。
更に、2年後の天文19年(1550年)2月26日、上杉定実が後継者を指名せずに死去したため、長尾景虎は室町幕府から「白傘袋」と「毛氈の鞍覆」の使用を許され、越後国主になった訳です。
以後、中条藤資は上杉謙信の重臣として一門に次ぐ待遇を受けました。
川中島の戦いで、中条勢は宇佐美氏・斎藤氏らとともに、武田方の小笠原・穴山らの備えを撃破しています。
1557年に、上杉謙信が越後を去って高野山に籠もると、中条藤資が中心となって、起請文と人質を差し出して帰国をお願いしています。
沼田城攻めにも参陣すると一番乗りの手柄を立てた他、第4次川中島の戦いでは、中条家の被官・家人らの多くが討死し、戦後、上杉謙信から「血染の感状」を受けています。
そして、中条藤資は猛将・柿崎景家や万能執事・斎藤朝信、直江景綱らと共に七手組の大将の一人にもなりました。
永禄11年(1568年)、中条藤資が死去すると家督は中条景資(なかじょう-かげすけ)が継いでいます。
本庄繁長が武田信玄の調略に応じて謀叛を企てた際には、中条景資にも誘いの密書が届きましたが、密書の封を切らずに、そのままに上杉謙信に報告し、本庄家討伐の村上城攻めにも加わっています。
しかし、当主だって期間はわずかで、1573年に死去。享年42。
中条景資には高梨政頼の娘との間に男子が無かったため、吉江景資の次男で婿養子・中条景泰が家督を継承しました。
正室は、中条景資の娘・俊子です。
中条景泰(なかじょう-かげやす)は、越後・鳥坂城は、家老の築地資豊にまかせて、自身は春日山城にて柿崎晴家、本庄秀綱らと並んで上杉謙信の側近として仕えたと言います。
そのため、死去するまで、1度も本拠地・中条に入ることは無かったとされます。
上杉謙信の急死により、御館の乱になると、中条景泰は上杉景勝に味方して、上杉景虎(北条三郎)についた黒川氏から攻撃を受けて奪われましたが、乱は景勝勢が制しています。
なお、本庄秀綱の籠もる栃尾城を攻め落とす功績もあり、加増を受けています。
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その後、中条景資・中条景泰も上杉景勝の家臣となっていますが、越中・魚津城の守備を任された際に、実父・吉江織部・竹俣三河守・山本寺伊予守らと3800にて防御を固めています。
魚津城の戦いで、柴田勝家は、佐々成政、前田利家、佐久間盛政、内ヶ島氏理ら4万にて攻撃をし、上杉勢は90日間防ぎましたが、上杉景勝は援軍を送れず、開城して撤退するようにと命を送ります。
しかし、これを潔ぎよしとせず、魚津城の諸将は切腹して、魚津城は落城しました。
まさに、本能寺の変があった、1582年6月2日の翌日のことです。
自刃した武将は下記のとおりです。
中条景泰(享年25)・山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・竹俣慶綱。
自刃した際、自分の耳に穴を開けて、自分の名前を書いた木札を、全員で結んで自害したと伝わります。
柴田勢が急ぎ撤退すると、がら空きとなった魚津城には須田満親らが入って取り戻しています。
その後、中条家の家督は中条三盛(なかじょう-みつもり)が継いで鳥坂城に入りましたが、まだ幼かったため、中条家の家老・築地資豊が名代後見となっています。
政務は重臣の羽黒信濃・西若狭・東名左衛門らが取り仕切りました。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津移封となると、鳥坂城は廃城となりましたが、中条三盛は出羽・鮎貝城主となり10000石と家臣分3300石を知行しています。
関ヶ原の戦いでは、直江兼続を大将にした最上攻めに出陣し、水原親憲らと共に戦いました。
米沢に移ると、知行は3330石となりましたが、引き続き鮎貝城を託されています。
米沢藩でも幕末まで侍頭や執権、奉行などの重職を中条家が担いました。
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越後・鳥坂城への登城は「宮の入コース」「追分コース」「白鳥山コース」などいくつかあるようですが、相当な山登りです。
地図では、鳥坂山がありますが、その鳥坂山が城跡ではありません。
電波塔のある峰でもなく、もっとも、羽越本線に近い方の峰となる白鳥山が、鳥坂城跡になります。
JR羽越本線「中条」駅より徒歩60分。
白鳥公園手前が登城口となる追分コースの入口に無料駐車場(約14台)があるようです。
追分コースは、約30分の所要時間となります。
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