長野県

高梨氏館 高梨頼親 高梨政頼 北信濃で君臨した高梨氏


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高梨氏館(たかなしし-やかた)は、長野県中野市小舘にある平城
館主として知られる高梨政頼(たかなし まさより)は、高梨澄頼の子として1508年頃に生まれた。
母は越後の守護代である長尾能景の娘。
高梨政頼の姉妹となる「於フ子」(おふね)は、村上義清の側室になっている。
父・高梨澄頼(たかなし-すみより)は、1513年に高梨政盛の死去したため家督を継いでいる。


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なお、「高梨氏館」は高梨政盛が築いたとされ、高梨氏の本拠地となっていた。

高梨氏館

高梨城、高梨小館、中野小館、中野御館、中野城とも呼ばれる。
高梨澄頼・高梨政頼と整備が続けられ、詰めの城としては強固な鴨ヶ嶽城も築いた。

鴨ヶ嶽城

北信濃で勢力を伸ばしていた高梨家であったが、高梨政盛の死後まもなく、越後にて長尾為景と越後守護・上杉定実との対立が激化した。
そのため、近隣の島津貞忠や井上一族・須田氏などは上杉定実に味方している。

高梨氏館

その上杉定実と敵対する長尾為景は、高梨澄頼の正室と兄弟でもあり、また、長尾為景の妻も高梨政盛の娘であった可能性があり、密接な関係だったことから、高梨政盛は長尾為景に味方した。
しかし、その結果、北信濃では孤立し、葛尾城主・村上義清の圧迫を受け、高梨家の勢力は減退した。


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ただし、越後で長尾為景が優勢となると立場が逆転。
1524年には勢力を回復し、高梨政盛は隠居して、家督を高梨政頼に譲った。

高梨氏館跡

なお、高梨政頼の正室は、岩井成能(岩井式部大輔成能)の娘ともあり、のち上杉謙信の家臣として武勇・智略をもって活躍する岩井成能の血縁と考えられる。

さて、武田信玄が信濃に進出すると、村上義清と高梨政頼は協力し、上田原の戦いなどにて2度も撃退することに成功。
しかし、真田幸隆らの調略により、砥石城矢沢頼綱、室賀氏、屋代氏、石川氏などが村上義清を見限った。
そのため、1553年、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延びる。

高梨氏館跡

こうして、武田勢と直接的に領地を接するようになった中野の高梨氏館も、1557年には圧迫を受ける状況となる。
そして、高梨政頼は高梨氏館を放棄し、飯山城に本拠を移し、上杉謙信に救援を求めた。
飯山城も一時武田勢に包囲されるも、上杉家の救援でなんとか救われている。
しかし、求心力は大幅に低下し、以後は事実上、上杉家の家臣となった。

1561年9月、山本勘助武田信繁らが討死した第4次・川中島の戦いにも、高梨政頼は上杉勢として、子の高梨秀政・高梨頼親らと共に活躍したが旧領回復には至っていない。

高梨氏館跡

その後、高梨政頼の動向は良くわかっておらず、没年も1576年頃?と言う事しか不明である。
第4次川中島合戦の前に没したとする説もある。

なお、上田城主・真田昌幸の家臣に高梨内記と言う武将がいる。

真田信綱(真田幸隆の嫡男)の正室・於北様は、高梨政頼の娘とする説がある。

そうすると、のち真田昌幸の嫡男の正室となった清音院殿(大河ドラマ・真田丸では「おこう」)は、高梨政頼と血縁となる。
よって、この高梨内記も、中野・高梨家の一族と考えられ、清音院殿(おこう)と高梨内記も「親戚」であったことであろう。


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高梨頼親とは

家督継承の時期は不明だが、飯山城にて再起を図っていた高梨政頼のあとは、高梨頼親(たかなし-よりちか)が継いだ。

やがて、上杉謙信の死後、御館の乱の際に、高梨頼親は勝者である上杉景勝に属した為、無事に乗り切ったが、この時、武田勝頼との同盟条件にて、飯山城は明け渡す事になった。
よって、完全に高梨家は上杉家の家臣に組み込まれる形となったと言えよう。

1582年、織田信長により武田勝頼が滅ぼされるが、その時にも高梨氏館跡だけでなく飯山城も織田勢の支配下となった。
しかし、本能寺の変が起こると、森長可ら織田勢は撤退したため、上杉景勝は北信濃に侵攻。
これにより、高梨頼親は念願の旧領回復となるが、上杉家の家臣と言う立場は変わらなかった。

高梨氏館跡

そのため、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも上杉勢として参加している。
しかし、1597年、上杉家の家臣である、柿崎憲家・須田満胤・本庄顕長・斎藤景信らが静粛された際に、高梨頼親も追放となっており、その後の動向がわかっていない。

ただし、上杉景勝の後を継いだ米沢藩第2代藩主・上杉定勝の代に、名誉回復されて、柿崎憲家・斎藤景信らと共にお家再興となった。
こうして、高梨家は米沢藩主として明治まで続いている。


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なお、高梨家は、尾張・丹後・相模など各地に散らばっており、女子スキージャンプで大活躍されている高梨沙羅さんも、戦国武将・高梨家の末柄だとされる。

高梨氏館跡は、東西約130メートル、南北約100メートで土塁、堀などが残る史跡公園として整備されており、2007年(平成19年)2月6日には「国の史跡」に指定された。

高梨氏館跡

さて、中野にある高梨氏館跡へのアクセス・行き方であるが、下記の地図ポイント地点が、無料駐車場の場所となる。

観光所要時間は、じっくり見ると20分くらい。
史跡公園になっているので、トイレも完備されている。

真田家の高梨内記と娘きり【真田信繁の側室】
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上杉謙信の解説~越後の龍と呼ばれた長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
御館の乱 上杉謙信死後の壮絶な跡継ぎ争い
長尾為景~二度主を殺した「奸雄」謙信の父の苛烈な生涯
真田信綱【真田幸隆の嫡男】~長篠の戦いで散る
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飯山城の訪問記~上杉家と武田家が凌ぎを削った最前線の城


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コメント

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  • コメント (2)

    • 相模の子孫
    • 2020年 6月 28日

    私の幼い頃、まだ存命だった曽祖父より「(上杉による)北条征伐に同行した御先祖様が、
    北条方の動向を監視する為 相模に残り、そのまま土着したのが当家なのだ」と、よく話してくれました。
    たまたまこのサイトに辿り着き、記載の史実と 曾祖父が語ってくれた事を思い出すと
    とても感慨深く、ルーツの知識にもなりました。
    ありがとうございました。

    • 城迷人たかだ
    • 2020年 6月 29日

    相模の子孫さま、コメントありがとうございます。
    ご先祖様や歴史から学べることは多いかと存じますので、大切にご供養もなさって頂けますと幸いです。(^-^)

城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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