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相模・長尾城(長尾氏館)~長尾定景・長尾景茂「上杉謙信ご先祖様発祥地」

相模・長尾城(長尾氏館)




相模・長尾氏館

相模・長尾城(ながおじょう)は、鎌倉郡長尾郷(神奈川県横浜市栄区長尾台町)にある平山城です。
別名は、長尾台の塁、長尾砦、長尾台城とも書きます。
標高は74mで、比高は68mあるそうですが、地勢は、そんなに堅固だとは感じません。

相模・長尾城(長尾氏館)

最初の築城としては、平安時代末期の長尾景弘だとされます。
もちろん、城と言うよりは、屋敷「長尾氏居館」があったと言う事になるでしょう。
長尾景弘(ながおかげひろ)の父は鎌倉景明で、長尾景弘の子としては長尾定景、長尾為宗がいます。
この長尾氏は、村岡郷を本貫とした、鎌倉党(鎌倉氏)の一族と言う事になります。





もとをただせば、鎌倉氏は、平良文の後裔とされますので、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏も、同族と言えます。
鎌倉氏の一族としては、梶原郷の梶原景時、三浦郡長江の長江氏、板倉重家の板倉氏、安積氏、俣野景久の只野氏(多田野氏)、高座郡香川郷の香川氏、古屋氏(降矢氏)、大庭景親など大庭御厨の大庭氏、鎌倉郡金井の金井氏などがいます。

戦国時代春日山城で活躍する上杉謙信長尾景虎)の先祖は、この鎌倉の長尾氏という事になります。
日本全国の長尾さんの発祥地であると言っても良いでしょう。

相模・長尾城

長尾定景

長尾氏2代・長尾定景(ながお-さだかげ)は、1180年、源頼朝が挙兵した際、同族の大庭景親・俣野景久・梶原景時、渋谷重国、糟屋盛久、熊谷直実らと、平家勢として、石橋山の戦いに参じました。
このとき、長尾定景は、兄・長尾為宗とともに、三浦党の佐奈田義忠(真田義忠・岡崎義忠)を討ち取り、俣野景久の命を救ったため、武勇を馳せました。

相模・長尾砦

安房に逃れた源頼朝が大軍となって鎌倉に入り、富士川の戦いのあと、大庭景親は降伏し、上総広常に預けられています。
同じく、長尾定景も降伏したようで、身柄は、亡き佐奈田義忠の実父・岡崎義実が預かりました。
捕らわれの身となった長尾定景は、毎日、法華経を唱えて、戦死者を弔っていたようです。
そのため、岡崎義実は、源頼朝に「読誦を聞くうちに怨念は晴れました。もしも彼を斬れば、冥土の義忠が難を蒙りましょうから。」と言い、長尾定景を助命するよう願い出て、1181年7月、源頼朝は許しています。

こうして、長尾定景は、以後、三浦義明の傘下に入り、三浦氏の郎党になりました。
そのため、長尾氏は、、鎌倉御家人とは言えないと存じます。
とはいえ、所領は安堵されていたのか、1093年、長尾氏の祖・長尾景村が、長尾郷に御霊社を建立したと伝わっています。

長尾・御霊社

桓武平氏諸流系図でも長尾景村とありますが、時代背景からして、長尾定景と同一人物とも考えられます。
景村の「村」の字は、三浦義村から、もらったのかも知れません。

1219年、鶴岡八幡宮にて、公暁が、鎌倉幕府3代将軍・源実朝を殺害します。
公暁は、源実朝の首を持って、備中阿闍梨宅の屋敷に入りました。
そして、乳母夫だった、三浦義村に、自分が将軍になると、支援を要請したのです。
しかし、三浦義村は、このことを、執権・北条義時に通報したため、三浦義村は公暁殺害を依頼されました。

相模・長尾氏館

そして、三浦義村は、実行部隊として、老齢の家来・長尾定景(長尾新六定景)に、公暁の討伐を命じたようです。
長尾定景は、最初、断ったようですが、再三の要請にてこれを受けます。
そして、三浦義村や北条義時と連携し、公暁(くぎょう) に「迎えの使者を送る」と騙しました。
長尾氏の5名の郎党を、迎えの使者として向かわせると、鶴岡八幡宮の裏で、長尾定景は公暁と会い、三浦義村宅の近くにて、公暁を討ち取りました。
長尾定景が、公暁の首を、執権・北条義時邸に持参し、三浦義時が、首実検を行ったと言います。

長尾景茂

長尾氏3代・長尾景茂(ながお-かげもち)も、引き続き、三浦氏の郎党に加わっていました。
長尾景茂の妻は、葛西時清の娘です。
長尾景茂は、将軍・藤原頼経の上洛に付き従って、春日神社参詣の行列にも列しています。





三浦泰村は、北条泰時の女婿として勢力をふるっていましたが、やがて、執権・北条時頼の外祖父・安達景盛や安達義景と対立する構図となります。
そして、1247年、執権・北条時頼は、三浦泰村ら三浦一族を打倒する、宝治合戦(ほうじかっせん)を起こし、敗れた三浦一族は、北条義時の法華堂にて、自刃しました。
この時、長尾景茂も自刃しており、長尾一族の多くも、亡くなったようです。
現地には、三浦一族の墓とされる、やぐらがあります。

相模・長尾氏館

長尾景忠など、僅かに生き残った長尾氏は、鎌倉幕府滅亡時に、いち早く足利尊氏に味方しました。
そのため、南北朝時代になると、関東へ入部した関東管領・山内上杉家の筆頭家臣として復活して行きます。
そして、越後・長尾氏、上田・長尾家、古志・長尾家、白井・長尾家、総社・長尾家、足利・長尾家などと勢力を伸ばしました。

相模・長尾城(長尾砦)

その後ですが、1450年、相模国鎌倉郡長尾郷が、足利成氏の命を受けた、水海城の簗田持助に押領されたとあります。
この時、上野・白井城の長尾景仲が、鎌倉にいて対応にあたったようです。
なお、長尾景仲の鎌倉屋敷は、北鎌倉・長尾景仲屋敷と考えられます。
足利成氏と、江ノ島合戦となりましたが、敗れた長尾景仲と太田道真は、上杉持朝の糟谷館に、逃げ込んでいます。

相模・長尾城

その後、北条早雲が相模国を統一すると、西にある相模・玉縄城の支城として、相模・長尾城は整備されたと考えられます。
長尾御霊神社の境内付近に、土塁や堀切などの遺構があるようです。
新編相模国風土記稿によると、長尾景茂が、弘治年間(1555年~1558年)に討死したとありますが、この長尾景茂は、前述した三浦一族と共に、1247年に討死した武将と同名ですので、誤伝なのか?、なんとも言えません。





北条家の家臣としては伝わる相模・長尾砦の城主は、鳥居伝十郎なる武将が、代官として見られます。
この鳥居伝十郎は、豊臣秀吉小田原攻めがあった1590年まで、城主を務めたと伝わっているようです。

交通アクセス

長尾城の場所は、当方のオリジナル地図の内部にて「長尾城」と検索してみてください。
残念ながら、駐車場はありません。
近くにコインパーキングもありません。
相模・長尾城への行き方・アクセスですが、JR大船駅から歩くと、約20分の距離です。
大船駅の西口からバスの本数もある路線バスもありますが、大船駅のバスターミナルが、相模・玉縄城へと少し、離れています。
お時間があれば、玉縄城、玉縄首塚とセットでどうぞ。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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