岐阜県

帰雲城 大地震で埋没し行方不明になった内ヶ島氏理

帰雲城




帰雲城(きうん-じょう)は、岐阜県大野郡白川村三方崩山の下にある保木脇(ほきわき)にある城跡です。
最初の築城としては、内ヶ島為氏が1462年頃に築城したと言われています。

内ヶ島為氏(うちがしま-ためうじ)は、足利義満の馬廻衆である内ヶ島季氏の子として生まれました。
将軍・足利義政より、飛騨・白川郷付近の領地に行くよう命じられ、当初は向牧戸城を本拠にしています。
幕府は、内ヶ島一族の鉱山開発を期待して送ったとも言われており、実際に、金山が3前後見つかっています。
応仁の乱となると、内ヶ島為氏も京にのぼり戦いました。
そして、白川郷に戻ってみると、留守の間に、事情が変わっていたと言います。





一向宗徒である照蓮寺の住職・教信が、弟・明教に住職を譲り還俗して、三島将監と改名すると、諸国から武士を雇い、内ヶ島氏と対等の勢力を誇っていたと言います。
1475年、内ヶ島為氏は、照蓮寺を攻撃して、三島将監を自刃に追い込みました。
弟の明教は逃亡したそうですが、間もなく自害したようです。
そのあと、本願寺蓮如は内ヶ島為氏と和睦し、照蓮寺が内ヶ島氏の勢力になることを認めて再興させました。
明教の遺児である明心が、照蓮寺を継いでいます。

内ヶ島雅氏、内ヶ島氏理(うちがしま-うじまさ)と代が変わるころには、内ヶ島氏は本拠地を帰雲城に移していたようです。
山深い地形を生かし、上杉謙信や姉小路頼綱らの攻撃をかわしていましたが、織田信長には屈して、佐々成政の与力となりました。
明智光秀本能寺の変を起こしてあとも、佐々成政に味方して、越中に赴き、羽柴勢と戦いました。
1585年、内ヶ島氏理にとっては、初めて領外に軍勢を出しましたが、最後でもありました。
その留守中に、家老の川尻氏信が裏切ったようで、羽柴勢の金森長近に白川郷を奪われてしまいます。
佐々成政も降伏してしまったため、金森長近を通じて豊臣秀吉と和睦し、所領安堵を受けました。
恐らくは、内ヶ島一族の鉱山開発能力の必要性を感じたのでしょう。
ただし、飛騨・鍋山城に入った金森長近の与力になることを命じられています。

ともあれ、お咎めも無く、所領が維持できたことには喜び、執着至極と家臣らを集めて「祝宴」を開くことにしました。
集合したその日は、1585年11月29日(旧暦)です。
新暦で計算しますと1586年1月18日ですので、雪も積もっている厳冬期であったと推測致します。





帰雲城では宴が開かれていましたが、夜22時頃、マグニチュード8.0とも言われる「天正大地震」(てんしょうじしん)が発生します。
震源地は特定できていませんが、被害が広範囲であることから、いくつかの断層が同時に動いたものと推定されています。

被害は甚大で、お城関係では、美濃・大垣城では全壊し焼失しました。
越中・木舟城も建物が倒壊し、城主の前田秀継の夫妻など多数が死亡しています。
蟹江城伊勢・長島城は壊滅し、清洲城も大きな被害があったようで、翌年に織田信雄が大改修しています。
近江・長浜城も全壊し、山内一豊とまつの1人娘だった与祢(よね)が乳母と圧死しました。
若狭湾・伊勢湾・琵琶湖でも大きな津波被害が出ました。
その他、富山湾や東北の三陸でも津波があったことが知られています。

M8クラスの地震が、少なくとも3つ以上発生した可能性が高いと考えられており、余震は1年間続いたと言います。
上高地の焼岳も大噴火しました。
その焼岳からはだいぶ離れていますが、内ヶ島氏理の帰雲城も甚大な被害となりました。

帰雲城

帰雲城では、帰雲山の斜面が崩壊し、城下町丸ごと、牛馬にいたるまで、土砂にて埋没したと言います。
被害は家300戸以上、圧死者500人以上とされ、生き残った村人や家臣らは、たまたま旅に出ていた、僅か数名だったとされます。
白川郷での記録でも、300戸が倒壊・埋没などしたとあります。
不運にも、帰雲城は、山崩れによって完全に埋没し、内ヶ島氏理、娘婿の東常堯、嫡男・内ヶ島氏行などは行方不明となり、内ヶ島氏は一夜の自然災害にて滅亡しました。

なお、内ヶ島氏理の実弟・経聞坊は、仏門に入っていたため、地震に関する書物「経聞坊文書」を残しました。
裏切っていた川尻氏信は、当然、宴会に呼ばれなかったので、無事でした。
また、譜代家臣で、萩町城主の山下時慶・山下氏勝の父子は、金森氏に従うのを嫌ってゲリラ化していたため、難を逃れています。
山下氏勝はのち豊臣秀吉に仕え、小田原攻めでは先鋒も務めました。
その後徳川家の家臣となり、尾張に入った徳川義直に仕えると「清洲越し」と言う、名古屋城を新築し、城下を移転することを進言したとして知られています。





なお、帰雲城には「埋蔵金伝説」があります。
上記でも触れてきましたが、内ヶ島氏は飛騨の金山・銀山・銅山など8箇所の鉱山を所有していたため、城内にて「金」などを蓄えていたのではと推測されています。
庄川の岸辺近くに屋敷があったそうですが、どこにあったのか、正確な場所は特定できていません。
もちろん、土砂にて地形が変わってしまい、せき止められた川は洪水も起こしたと言い、当時に帰還した者でも、どこに城があったのか?、分からなくなっていたと言います。

今回、帰雲城の石碑を撮影しに出かけましたが、その石碑がある場所が帰雲城があった場所と言う事ではなく、まさに幻の帰雲城と言ったところです。

現在でも帰雲山には、大地震の痕跡として、山肌がむき出しになっている部分が見えます。

帰雲城

帰雲城への交通アクセス・行き方ですが、長良川鉄道・越美南線の北濃駅から、バスにて保木脇バス停下車となります。
駐車場は舗装されていませんが、充分にあります。
車の場合には、石碑がある場所を当方のオリジナル地図にてポイントしていますので、ご参照賜りますと幸いです。

内ヶ島氏理 土砂に埋もれた悲劇の武将
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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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