新潟県

越後・三条城(三条島之城) 城跡はどこなのか?山吉景長と神余親綱も

三条城(さんじょうじょう)は、新潟県三条市の平城です。
信濃川に中之口川、五十嵐川、刈谷田川などの支流が合流する水郷地帯で、河川を利用してつくられた川城とも言うべき城です。
別名は、三条嶋城、三条島之城、三条島ノ城とも言うくらいですので、川と川に挟まれた中州にあったのかもしれません。

最初の築城時期は不明ですが、平安時代に三条左衛門が三条城(三条館)にいて、1051年から始まった前九年の役のあと、奥州藤原氏へと繋がる安倍貞任の郎党の黒鳥兵衛(くろとり-ひょうえ)に攻められて滅亡したとされます。

南北朝時代には南朝に味方した池氏の拠点が三条城でしたが、池氏と三条城の関係も不明です。

その後、越後守護代の長尾家に属した池氏の一族とも考えられる山吉氏が代々の居城としました。





山吉久盛(やまよし-ひさもり)は、長尾邦景に仕えた有力被官で、1423年、越後守護に味方している中条房資らと応永の乱で対峙しています。
1426年には、越後守護勢の攻撃を受けましたが、三条城を守りぬいています。
子の山吉正盛(やまよし-まさもり)も、引き続き、長尾邦景の忠実な被官でしたが、上杉房定によって長尾邦景が捕縛・切腹となり没落すると、関係は不明ですが、山吉能盛が登場します。

山吉能盛(やまよし-よしもり)は、越後・三条城主として蒲原郡の郡代を務めます。
1507年8月、上杉定実を擁立した長尾為景が反旗を翻して、越後守護・上杉房能を急襲し自害に追い込む永正の乱でも、山吉能盛は長尾家に味方しました。

その後、揚北衆の反撃や、上杉房能の兄で関東管領・上杉顕定の越後侵攻を受けても、山吉能盛は長尾為景に与しており、本成寺の僧兵らと共に三条城を死守しました。
山吉政久(やまよし-まさひさ)が三条城主になった頃には、上条定憲ら反為景派が勢力をつけており、上杉定実の擁立を名目にした抗争した末に、長尾為景は隠居に追い込まれます。
その後、実子がいない上杉定実は、伊達氏から伊達実元を養子として迎える計画を立て、山吉政久は賛成していましたが頓挫し、後に越後上杉家は断絶するのでした。

こうして、長尾景虎上杉謙信)が春日山城に入ると、山吉政久は重臣として活躍しました。
天文21年(1552年)4月に隠居すると、嫡男・山吉豊守に家督を譲ったとされます。

山吉豊守(やまよし-とよもり)は、1525年生まれで、山吉政応あるいは山吉政久の子とされます。
このようなケースの場合、どちらかが実父で、どちらかが養父だもと推測できます。
御奏者となって上杉謙信の側近になると、関東の諸豪族や小田原城の北条家とも交渉を担当しました。

天正年間の「上杉家軍役帳」では、家中で最も多い軍役数377名となっています。
上杉謙信が越中へ出陣した際には、春日山城の留守居も務めました。

1575年か1577年に死去し、正室・本庄実乃の娘との間に生まれた嫡男・山吉盛信が家督を継ぎましたが、すぐに急死します。
そのため、山吉盛信の弟・山吉景長(山吉景盛)が13歳で跡をぎました。
しかし、減封のうえ木場城に領地替えとなっています。

これは、上杉家のしきたりで、家督継承者が15歳未満だった場合には、本来であれば領地没収でした。
しかし、山吉家のこれまでの貢献などが考慮されて、領地半減に留めましたが、三条城から木場城へ移るという処置になった模様です。
三条城には旗本衆から神余親綱が入っています。

山吉景長(やまよし-かげなが)は、天正5年(1578年)に御館の乱になると、上杉景勝に味方して木場城を守備しています。
三条城の神余親綱(かなまり-ちかつな)は、当初は木場城の山吉景長らと上杉景勝に付く動きを見せましたが、結局、栃尾城主の本庄秀綱と共に上杉景虎(北条三郎)に加担します。
そのため、山吉景長が、三条城にいた旧臣を調略し、神余親綱を討たせました。
山吉景長は新発田重家の乱の際にも、最前線基地として、援軍・蓼沼弥七と共に木場城を守っています。
信濃川河口は新発田勢も石高の拠点であったため、抑えた上杉景勝勢が有利となり、新発田氏滅亡への足がかりとなりました。

山吉景長も新潟城や沼垂城の攻撃に出陣しており、新発田盛喜を討ち取るなど大きく貢献しました。

その後の佐渡の本間家討伐の先陣、豊臣秀吉による小田原攻めでは八王子城攻め、文禄・慶長の役での母衣武者としての参陣するなど主戦力となっています。
上杉家の会津・米沢への転封にも従い、慶長16年(1611年)に死去しました。





さて、1598年に上杉景勝が会津へ移封したあとには、北ノ庄城から堀秀治越後・福島城に入り、三条城は家老の堀直政に与えられましたので、ここでも重要拠点であることが伺えます。
なお、三条城代には、堀直政の嫡男・堀直清が50000石となり、三条新城や城下町の整備などを行いました。

堀直政

下記は、信濃川の河川敷、県道1号沿いの石碑がある場所の雰囲気です。

越後・三条城

慶長15年(1610年)に、御家騒動にて堀家が改易となると、三条城は廃城になりました。

しかし、元和2年(1616年)、市橋長勝が伯耆・矢橋より43000石で入封すると、近世・三条城が新たに築かれます。
元和6年(1620年)、市橋長勝が没すると嗣子がいなかったため、改易(所領没収)となりましたが、徳川家康の信頼が厚かった養子・市橋長政に20000石が与えられ、近江国仁正寺に陣屋を構えています。

替わって越後国藤井から稲垣重綱が23000石で入封し、慶安4年(1651年)三河国刈谷へ転封となると三条藩はなくなりました。





なお、鎌倉時代、南北朝時代、戦国時代のと越後・三条城は、川の氾濫や時代の変遷とともに、場所も少し離れたところへと、その都度、変わっていったと考えてよいでしょう。

三条小学校の南側にある三条信用金庫・古城町支店の建て替え時に、発掘調査した結果、三条城の本丸があったと比定されています。

三条城の本丸跡

恐らくは、平安時代から鎌倉時代と古い時代の三条城なのではと感じます。

戦国期の城跡は、やはり、信濃川西岸なのかなと言う感じを受けますが、新潟はあまり詳しくないので、わかりません。

近世・三条城は、見当がつきませんが、やはり、信濃川西岸なのかな?

遺構などが乏しいので、よくわかっていません。

あと、本成寺にある黒門は、三条城の移築門とされます。
恐らくは三条陣屋の門だと感じます。

三条城の移築門

なお、上記の通り、ご近所にお住まいと思われる方が、門の目の前に自動車を止めるのを目撃してしまいました。
本成寺の檀家さんだとは思いますが、ちょっと残念に感じた次第です。

越後・三条城の見学所要時間ですが、それぞれの史跡毎にはそんなに時間は要しません。
ただし、次の三条城関連史跡への移動には、昔ながらの狭い街中と言う事もあり、一方通行もあるなど、移動に時間を要しますので、クルマの場合に余裕をもって計画して頂けますと幸いです。
それぞれの見学ポイントは、当方のオリジナル地図にてわかるようにしてあります。

長尾為景 二度主を殺した「奸雄」謙信の父
春日山城 戦国の息吹を感じ妄想も広がる山城
御館の乱 上杉謙信死後の壮絶な跡継ぎ争い
新津城 新津勝資・上杉二十五将のひとり
越後・五泉城(甘粕備後守城跡) 城跡は五泉八幡宮
栃尾城 越後の龍・上杉謙信「旗揚げ」の山城
上杉謙信・長尾景虎・上杉景虎の人物像に迫る
新潟の城跡などの場所が分かるオリジナル地図

この史跡への皆様の評価→
攻略難易度
中級者向け
旧国名
越後
著者コメント
目立った遺構は無く、更に分散されています。

 

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