富山県

越中・木舟城 石黒成綱の本拠地も天正地震で再建不能に

越中・木舟城

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越中・木舟城(きふね-じょう)は、富山県高岡市福岡町木舟にある平城(標高124m)で、別名は、木船城、貴船城とも書きます。
これがまた、能登や越中の城名は、日本の他の場所にも同じ城名が多いのと例外なく、陸奥・木舟城、信濃・木舟城もありますので、混同しないよう注意が必要です。
しかし、越中・木舟城の様子は、結構詳しくわかっているほうですので、ご紹介のしがいがあります。


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まず最初には、木曾義仲(源義仲)と巴御前らの軍勢が、般若野の戦い、倶利伽羅峠の戦いで平家から大勝利したあと、1184年に石黒光弘が築きました。
この石黒氏は、孝元天皇の孫・武内宿禰の後裔になる古代豪族・利波氏、または藤原北家・魚名流利仁流の井口氏の流れを組む名門です。
本拠は石黒荘で、本城は越中・福光城でしたので、その後、越中・木舟城は一族が治めたものと推測致します。
南北朝時代には、南朝宗良親王が石黒氏の館に立ち寄ってとありますが、これは越中・福光城かも知れません。

やがて、井波瑞泉寺の一向宗徒が活発になると田屋川原の戦いにて、越中・福光城の宗家は衰退し、越中・木舟城の石黒家が盛隆しました。

戦国時代には、天文年間(1532年~1554年)の、越中・木舟城主は、石黒左近将監で、越中・安楽寺城を攻めると高橋則秋(高橋與十郎則秋)を討ち取っています。
1566年、石黒成綱(いしぐろ-なりつな)が一向一揆の小倉六右衛門が立て籠もった越中・鷹栖館(南砺市鷹栖上島)と、越中・勝満寺(小矢部市水島)を攻めて放火しています。

越中・木舟城

天正年間(1573年~1591年)には、石黒氏が越中・中田城と、越中・柴田屋館を攻撃したとあります。
天正2年(1574年)7月、春日山城主の上杉謙信が越中に侵攻した際に越中・木舟城は降伏したようで、上杉家に臣従します。
天正5年(1577年)12月23日に記載されたたとみられる『上杉家家中名字尽』では、石黒左近蔵人(石黒成綱)の名前が記載されています。
上杉謙信が死去したあと遺品の太刀を受け取っていた石黒成綱でしたが、上杉家を裏切って、織田信長に寝返りました。

その後、神保長住に従属し、更には柴田勝家に寝返ったようで、1580年2月と1581年4月に、一向一揆勢の重要拠点で、上杉景勝が支援していた越中・安養寺御坊(勝興寺)を焼いて滅ぼしています。
しかし、上杉勢の反撃を受けます。
越中・増山城にいた吉江宗信が攻撃して、越中・木舟城は落城しました。

越中・木舟城

1580年7月、石黒成綱や石黒与左衛門ら一族30人が、織田信長に呼び出されて、丹羽長秀の近江・佐和山城に向かっています。
この時、内通の嫌疑を掛けられていることに気が付いたようで、一行は越中に戻ろうとしたようです。
しかし、近江・長浜城近くで、丹羽長秀の軍勢に追いつかれて、粛清され、石黒氏は滅亡しました。
なお、石黒成綱の子らは、のちに加賀藩士や富山藩士となっています。

さて、越中・木舟城は、そのあと上杉家の吉江宗信が守っていましたが、1580年7月、柴田勢の猛攻に耐え切れず、海路を脱出しています。
その後、佐々成政の支配下となり、重臣の佐々平左衛門が越中・木舟城主となりました。

佐々平左衛門(さっさ-へいざえもん)は、1529年生まれの佐々一族で、実名は佐々政元となります。

1584年には、奥村永福と対した末森城の戦いの際には、佐々勢15000が越中・木舟城経由で西へと進軍したため、佐々平左衛門も参加し、龍ヶ峰城の守備にも就いています。
1585年には、越中・守山城主の神保氏張、越中・井波城主の前野勝長と、金沢城主・前田利家の弟である前田秀継が進出した今石動城を攻めました。
しかし、前田安勝らの援軍がきたため、佐々政元は撃退されて、越中・木舟城に戻っています。

そのあと、豊臣秀吉が自ら出陣してくると、佐々成政は戦わずして降伏しました。
ただし、佐々勢の一部が木舟城付近で、前田勢に夜討ちをしかけたと言う伝承もあります。
その後、佐々成政が肥後に配置換えとなると、前田利家の末弟・前田秀継が4万石にて、越中・木舟城に入りました。

越中・木舟城

ところが、1585年11月29日、天正地震が発生しました。
この大地震では、飛騨の帰雲城は山崩れで埋没し、大垣城は火災が発生し全焼、伊勢・長島城は倒壊、近江・長浜城や尾張の蟹江城は壊滅しています。
木舟城では、地盤が9mも陥没したとの記録もあり、建物が全壊し、前田秀継と長齢院(竹野氏の娘)の夫妻は多くの家臣と共に圧死しました。
遺体が発見されたのは3日後であったとも言われます。
その後、子の前田利秀が家督を継ぎました。

なお、これもよく歴史上で出て来る話ですが、天正14年(1586年)5月、上洛途中の上杉景勝は、越中・木舟城に立ち寄って歓迎を受けています。
しかし、城の修復は困難と判断したようで、その年のうちに越中・木舟城は廃城となりました。

前田利秀(まえだ-としひで)は、本拠を今石動城に移して城下町も移転したようで、現在の小矢部市が発展しました。

前田利秀は前田家の重臣として、1590年の小田原攻めでは、上野・松井田城攻めと八王子城の戦いにて戦功を挙げています。
1592年、朝鮮攻めの際に、肥前・名護屋城へ向かいましたが、病気となり、金沢に帰る途中、1593年12月29日に死去しました。享年26。

と言う事で、大地震で潰れてしまったくらいですので、城跡と呼べるものは少ないです。
僅かに土塁と石碑が残されていますが、駐車場もある公園として整備されているのは素晴らしいです。
ただ、例によって、無料の駐車場には、車の中で休憩する方が多く、城跡には興味がない方が多く、クルマを止めています。


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越中・木舟城への交通アクセスと申しましょうか、行き方・道路がわかりにくいですので、当方のオリジナル北陸地図にて駐車場をポイントしてあります。
電車の場合、JR北陸本線の福岡駅からバスで本領バス停下車のようです。
見学所要時間は5分あれば十分です。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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