富山県

井波城 越中一向一揆の拠点

井波城

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井波城(いなみ-じょう)は、富山県南砺市井波にある平山城です。
平山城と言っても比高20mほどですので、堅固な城ではありません。
別名は、井波城、礪波城、稲見城、伊波城、利波城、瑞泉寺城とも言います。

井波城があった松島古城公園の場所は、三方は巨大な土塁で囲まれていたことから、井波城と独立しているようになっています。
しかし、現地を訪れて分かったのですが、南側の道路ひとつ隔てると、すぐ脇は「瑞泉寺」です。


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この瑞泉寺(ずいせんじ)は、戦国時代には370寺を支配した、越中一向一揆の拠点になっていました。
その瑞泉寺の山門付近には、それこそ、お城ではないかと思わせる、高い石垣もありました。

よって、井波城の城域も含めて、瑞泉寺城と呼んだ方が正しいように思えました。
実際に、文明年間(1469年~1487年)に瑞泉寺によって築城されたと言います。

井波城

1481年、越中・福光城主の石黒光義(石黒右近光義)が、医王山惣海寺と手を組んで、井波・瑞泉寺と山田川にて合戦となりました。
しかし、石黒氏は敗れて滅び、山田川の東は瑞泉寺の領地、西は安養寺領(勝興寺)になったとあります。
このように瑞泉寺は、防御も必要となったことから、要害の構えになったようです。
その一部が、井波城と言うことでしょう。

井波城

しかし、どうやら、井波城を大改修したのは佐々成政だったようです。
1581年、佐々成政は越中一向宗の二大勢力となっていた瑞泉寺を攻めると、一揆勢は五箇山へと逃れました。
この時、瑞泉寺は焼き討ちされたようで、その焦土と化した跡地の一部に、大きな土塁を築いて、井波城としたようです。
阿弥陀堂跡が本丸、祖師堂跡が二の丸、太鼓堂跡が三の丸になったと伝わります。
現在の本丸跡には井波八幡宮、二の丸跡が「松島古城公園」になっています。
井波城主には、家臣の前野勝長(前野小兵衛勝長)を15000石にて入れました。


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織田家の家臣に前野三兄弟と言い、小坂雄吉、前野長康がいますが、その末弟が前野勝長(まえの-かつなが)とされます。
鉄砲隊を率いており、1570年、小谷城から退却した際には、殿軍を務めた佐々成政勢として活躍が見られます。
そして、武功夜話によると、佐々勢として、魚津城や、越中・松倉城を攻めています。
前野勝長の妻は佐々平左衛門の娘とされますので、一門扱いを受けていたのでしょう。

1585年、豊臣秀吉富山城を攻撃した際に、前野勝長も富山城に籠ったようで、討死したともされます。
丹羽長重の陣に攻撃して戦死したともあります。

その後、井波城は前田領となり、やがて廃城になった模様です。

ただし、瑞泉寺は再建されていったようで、瑞泉寺の門前には、今でも古い町並みが残っていて、とても雰囲気が良いです。

井波の町並み

二の丸跡には、日本各地にあるヤマトタケル像も建立されていました。

交通アクセス・行き方ですが、電車の場合には、JR北陸本線の高岡駅からバスで所要50分、瑞泉寺前バス停下車となります。
駐車場ですが、歩いて5分ほどのところに、道の駅「井波いなみ木彫りの里」がありますので、そこを利用してゆっくり散策した方が良さそうです。
今回、雨天で足元が悪かったのと、予定外の訪問になったため、簡単にしか撮影しませんでしたが、もう一度、訪れてみたいところでした。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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