富山県

富山城 続日本100名城 神保長職と神保長住

富山城

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富山城とは

富山城(とやまじょう)は、富山県富山市丸の内にある梯郭式平城で、別名は浮城(うきしろ)、安住城(あずみじょう)と言います。
彦根城犬山城などを参考にして昭和28年に建てた天守閣風の富山産業大博覧会の建物(複合連結式望楼型3重4階と2重2階の小天守)は模擬天守ですが、国の登録有形文化財に指定されています。
また、富山城は続日本100名城にも選ばれています。


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最初の築城はよくわかっていませんが、一般的には、地元の豪族・水越勝重が、戦国時代の1543年頃に築城したとされます。
水越勝重(みずこし-かつしげ)は、漢字の間違えで水野勝重と記載される例もありますが、越中守護代・神保長職(じんぼう-ながもと)の家臣で、命を受けて富山城を築いた模様です。

富山城

そもそも神保氏と言うのは畠山氏の譜代の家臣で、越中・神保氏は放生津城を本拠として、越中守護の畠山氏を支えました。
しかし、戦国時代になり、神保慶宗(じんぼう-よしむね)のとき、主家・畠山氏から独立を目指して、一向一揆と結び、畠山尚順の援軍としてやってきた長尾能景を、般若野の戦いにて討ち取りました。

富山城

そのため、畠山尚順と長尾為景の逆襲を受けて二上山城(守山城)で籠城しています。
一度はしのぎ、椎名長常の味方も得ましたが、1520年、新庄の戦いで敗れて、敗走途中に神保慶宗は自刃しました。
その後、弟の神保慶明(じんぼう-よしあき)が、畠山氏によって擁立されたようですが、歴史上からは活躍が見られまず、神保氏は滅亡した形となりました。

富山城

しかし、神保慶宗の遺児とされる神保長職(じんぼう-ながもと)が現れます。
神保長職は没落していた神保家を再興し、1531年には、畠山稙長の軍勢にも加わるまでになっていました。
ちなみに、椎名慶胤の遺児・椎名康胤も復活を遂げて越中・松倉城を本拠に勢力を拡大します。

富山城

そのため、神保長職は家臣の水越勝重に命じて富山城を築城し、椎名氏に対抗しました。

戦国時代の北陸情勢

神保長職は、神通川上流の城生城を1年間包囲するなど、かなりの攻勢に出ています。
そのため、1544年、七尾城畠山義総が、神保氏と椎名氏を仲介して停戦しましたが、神保長職は神保家最大の領地を得ていました。

富山城の石垣

しばらくは、平穏になったようですが、1559年、神保長職は再び椎名康胤への攻勢を強めました。

神保長職と富山城

そのため、椎名康胤は、春日山城上杉謙信に救援を求めたため、1560年、富山城などは上杉勢の攻撃を受けます。
富山城から出て越中・増山城に入ると、畠山氏の仲介で上杉勢に降伏しました。

富山城の石垣

その後、神保長職は、甲斐の武田信玄に協力を仰ぎ、椎名家を圧迫したため、1562年にも上杉謙信に攻略されています。
しかし、上杉勢が越後に戻ると、再び蜂起して、勝興寺・瑞泉寺の越中一向一揆と共に神通川の戦いに挑みました。

富山城

神通川の戦いでは、椎名勢の神前孫五郎を討取るなど大勝利を収めて、越中・松倉城まで攻め込みましたが、椎名康胤が再度、上杉謙信に救援を要請したため、神保長職は撤退して越中・増山城に戻ると和睦して、神通川より東側の支配は失敗に終わり、以後は、上杉家に臣従しました。
1566年には能登の畠山義綱と畠山義慶が、重臣である長続連、遊佐続光、八代俊盛らによって追放されます。
そのため、神保長職は上杉謙信に頼み込み、畠山義綱の能登復帰を支援しました。

富山城

一方、上杉家の神保家に対する処遇に不満を募らせていた椎名康胤は、1568年に上杉家から離反して武田信玄に内通し、一向一揆衆に味方します。
神保家でも、嫡子・神保長住を支持する家老・寺島職定ら反上杉派が台頭し、上杉家に近い家老・小島職鎮らと対立する事態となりました。


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家中は内紛状態になりましたが、神保長職は、上杉謙信の介入も受けて子の神保長住らを弾圧した為、神保長住は出奔し、のち京にて織田信長に仕えています。
また、神保家では小島職鎮が事実上の実権を握るに至り、家督を次男・神保長城に譲っています。

富山城

そして、織田家に仕えていた、神保長住(じんぼう-ながずみ)は、1578年に上杉謙信が死去すると、織田家の佐々長穐らの兵を与えらます。
飛騨から越中に侵攻し、斎藤信利、小谷六右衛門、二宮長恒などを味方につけると、越中・増山城を攻略して神保長城を駆逐し、越中西南部を制圧しました。

富山城

こうして、神保長住は富山城に入りましたが、1582年、小島職鎮や、越中・小出城唐人親広らに裏切られて、富山城を急襲され捕縛の身となって失脚しています。
しかし、富山城は柴田勝家ら織田勢に奪還され、代わりに、富山城主になったのは、織田家から越中方面を任された佐々成政です。
そして、佐々成政は神保氏張ら神保一族も取り込みながら、富山城を大改修しました。

佐々成政と富山城

本能寺の変のあと、佐々成政は、小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄に味方したため、豊臣秀吉と対立します。

富山城

1584年、豊臣秀吉は自ら出陣して前田利家ら10万の大軍にて富山城を包囲しました。
佐々成政は降伏し、富山城は破却されましたが、前田利家に越中は与えられると、前田利長が松任城から32万石で富山城に入って改修しています。

富山城

その後、前田利長が家督を継ぐと金沢城を本拠としていますが、関ヶ原の戦いのあと、江戸時代に1605年に隠居すると富山城に移りました。
しかし、1609年、富山城は火災となって焼失したことから、新たに越中・高岡城の築城を幕府に願い出ています。
一時、魚津城に入ったあと、完成した高岡城に移りました。


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なお、富山城は使わなかった訳ではなく、一部を修繕して、家臣の津田正勝(津田義忠、津田刑部義忠)が3000石で城主を務めており、大坂の陣の際には、金沢城と富山城の留守を守りました。
次期は不明ですが、横山党の子孫である加賀八家の横山長知も、3万石にて富山城を預かっています。

富山城

その後、1639年に富山藩が成立すると、1661年頃から富山城の修復が始まり、城下町も整備されました。
10万石の大名としては大規模な構えの城になったようですが、財政難もあり天守は築かれなかったようで、千歳御殿が本丸にありました。

千歳御殿

そして、明治を迎え、現在では富山県のシンボルとして、富山城址公園になっています。
ちなみに、富山藩2代藩主・前田正甫は、反魂丹(はんごんたん)を製薬して富山の薬売りを広めました。

富山城

下記は富山城の北側にある松川を行く、遊覧船「松川遊覧船」です。

松川遊覧船

松川茶屋になっているところが、乗船場で、桜が咲くころには、とても良いところになります。
うどんなどの軽食類もあるようですので、昼食・ランチも良いです。

松川遊覧船

富山城の続100名城スタンプは、博物館2階のトイレ付近にあるようです。
富山城には、色々なスタンプが置いてあるようなので、間違えないようにご注意願います。
私は、スタンプはやっていませんが・・。


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富山城への行き方

富山城への交通アクセスですが、電車の場合には下記のとおりになります。
富山地方鉄道・富山市内軌道線の国際会議場前停留場下車して徒歩2分です。
クルマの場合には、富山城地下駐車場(有料)が利用できます。
駐車場の入口を当方のオリジナル地図にてポイントしてあります。

富山城の見学所要時間は、早く見ると20分ほど、じっくり見ると60分くらい必要です。

ちなみですが、東京都心の神保町(じんぼうちょう)は、江戸時代に徳川家の旗本になっていた神保氏の屋敷があったからです。

放生津城 神保慶宗と越中守護代家神保氏
魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
越中・松倉城 山の奥にある椎名氏の本城
越中・小出城 唐人親広 何度も取り合いになった最前線
七尾城 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い
富崎城 神保長職の本拠だった城跡か?
増山城 攻防が続いた続日本100名城で広大な富山の山城
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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