下総・豊田館
向石毛城(下総・豊田館)は、茨城県常総市向石下にある平城で西館とも呼ばれる。
最初の築城は平安時代の平良将とされる。
なお、単純に「下総・豊田城」と言う城跡も近くにあるので混同しないよう注意が必要となる。
平良将
平良将(たいら の よしまさ) は、平安時代前期の武将で873年頃に平高望の3男として生まれた。
官位は従四位下、鎮守府将軍。
母は藤原良方の娘。(高望王の妹ともある)
諸説あるため不明瞭なところも多いが、出来る限りわかりやすく記載してみたい。
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平高望(たいら の たかもち)は高望王とも呼ばれる葛原親王の第3王子であり都にいても出世は望めない。
そんななか、898年に父・平高望(高望王)が上総介に任じられると、長男・平国香、次男・平良兼、3男・平良将を伴い、千葉県山武郡横芝光町屋形の地に赴任して勢力をはった。
長兄の平国香は、常陸大掾・源護の娘と結婚して、常陸・石田館に移ると常陸大掾を継いだ。
次兄・平良兼は、宗家と目されていたようで、父・平高望の後継・上総介となった。
平良将は、県犬養春枝の娘を妻としている。
県犬養春枝女(あがたいぬかいのはるえ)に関してはよくわからないが、恐らく下総・相馬郡の有力者であったと考えられ、平良将は下総国佐倉に所領を持った。
そして、903年、県犬養春枝の娘との間に平将門(たいら の まさかど)が生まれている。
その後、下総の豊田郡・猿島郡を勢力範囲とし下総・豊田館(向石毛城)などを拠点にしたと考えられるが、918年頃に平良将は亡くなったようで、まだ若い平将門が後継者となった。
一説によると、平将門は下総・豊田館(向石毛城)で生まれたともある。
なお、平将門の舘とされる城跡は他にいくつもある。
そのすべて使われていて、移転したりしたものと小生は考えるが、もちろん、実際に下総・豊田館が使われたのか?、使っていてもいつ頃だったのか?は不明といったところだ。
ただし、平将門の本拠地は「豊田郡」と言う事は確かである。
平将門に関しては別の記事にて詳しくご紹介しているのでここでは簡単に説明したい。
真壁の源護が新治・大國玉(茨城県桜川市大国玉)の大国玉神社神官・平真樹と領地の境界線争いになると、高望王(平高望)に支援を求めた可能性がある。
これに対して平真樹(たいらのまさき)は、娘・君の御前を豊田の平将門に嫁がせて平将門に調停を頼んだ。
そのため、935年2月4日、源護の子である源扶・源隆・源繁の兄弟は、真壁・野本(茨城県筑西市赤浜付近)堀の内遺跡にて、豊田から来た平将門を待ち伏せしたが平将門が勝利する。(野本の戦い)
<注釈> 下妻の大串陣営(大串の館)にて待ち伏せしたとも。
そして平将門は大串の館や高道祖(たかさい)を焼き払い、源護の本拠・真壁も焼き討ちした。
その際に平将門、常陸・石田館の平国香も襲撃して焼死させている。
こうして、平将門の乱(承平天慶の乱)に突入した。
焼死した平国香(平良望)の嫡男・平貞盛(たいら の さだもり)は、朝廷に休暇を申請して、京から急ぎ駆けつけ、父・平国香の屍を探し出し、また、山中に逃れていた、母と妻らを見つけたとある。
水守営所(常陸・水守城)の平良正は平将門を討つ為、兵を集める準備を開始。
935年10月22日、平良正が兵をあげると、鬼怒川沿いの常陸国新治郡川曲村(桐ヶ瀬城付近?)にて、平将門と激戦となった。
平良正は敗走して水守城に戻ったようで、平将門は、23日、本拠である下総国豊田(茨城県常総市豊田)に引き上げている。
その後、平良正は不介入を貫いていた上総の平良兼(平高望の次男)に、平将門の乱暴を訴えた。
平良兼は継室が源護の娘であり、更には、娘を平将門の妻に出している。
そのため、平良兼も平将門の暴挙を見過ごすことが出来なくなり、936年6月、上総国から出陣した。
一方で平良兼は平将門の動きには中立姿勢だったが、さすがに長兄・平国香が討たれると嫡流と言う立場となり見過ごせなくなったようで、京から戻った平国香の子・平貞盛と水守営所にて合流。
936年6月に平将門の本拠地・豊田が攻撃を受けた。(豊田館が攻撃されたのかはわからない)
その後、平将門が奇襲すると平良兼は筑波山に逃げ込んでいる。
そのため、平良兼は勢力を弱め、939年6月には病死した。
一方で平良文は平将門と戦った形跡がないので養護したようだ。
平良文の3男・平忠頼の妻が平将門の娘・春姫と言うところもあったのだろう。
またたく間に平将門を攻撃してきた関東一円の敵対勢力を駆逐していった。
939年4月17日、平良文が陸奥守・鎮守府将軍となって関東を離れて胆沢城 (岩手県奥州市水沢) に入ったあいだの、939年12月に独立国家を宣言をした。
将門記によると、939年12月15日、平将門は下妻の大宝八幡宮にて諸国の官職を任命する儀式を執り行ったと言う。
平将門の新皇の位は、大宝八幡宮の巫女より授けられたと伝わる。
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新皇・平将門が配置した諸国の除目などは下記の通り。
下野守・平将頼(平将門の弟)
上野守・多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介・藤原玄茂(常陸掾)
上総介・興世王(武蔵権守)
安房守・文屋好立(上兵)
相模守・平将文(平将門の弟)
伊豆守・平将武(平将門の弟)
下総守・平将為(平将門の弟)
関東一円を手中に収めた平将門は「新皇」を自称し、岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。(石井営所)
そのため、岩井にも平将門の舘がある。
平将門謀反の知らせが朝廷に届くと、藤原忠文が征東大将軍に任じられて追討軍が京から派遣された。
その頃、平将門は兵5000を使って、平貞盛と平為憲(平維幾の子)の捜索を行っていた。
常陸国までくまなく探し、平貞盛の妻、源扶の妻を捕らえている。
この間、平貞盛は下野の藤原秀郷を頼って反撃に出た。
940年2月13日、討伐軍が到着する前に、平貞盛と藤原秀郷の軍勢4000が岩井の石井営所を襲撃。
このとき、常陸での捜索に兵を割いており、平将門は手勢が1000しかなく敗走する。
平将門が討死した場所は、岩井の北山稲荷大明神がある地点とされる。
平将門の旧領である下総国相馬郡は平良文に与えられたようだ。
なお、父の仇を取った平貞盛はたくさん所領を得たほか一族から養子も多く受け入れている。
弟・平繁盛は子の平維幹(たいら の これもと)を平貞盛の養子に出した。
その平維幹は多気権大夫と号して常陸国筑波郡の常陸・多気山城を築き、常陸平氏・多気氏の祖となっている。
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そして時は流れて平安時代後期の永承年間(1046年~1053年)に、常陸・多気山城の常陸大掾・平重幹の3男・平政幹が豊田郡(石下町、千代川村、下妻市、糸繰川以南、八千代町東南部、水海道市)を分けられて石毛館に住み石毛政幹(石毛荒四郎、赤須四郎平政幹)と称した。
その後、赤須将基(赤須四郎平将基、平政基、平政幹とも書く)は、前九年の役に陸奥守・源義家に味方して武功を挙げ、後冷泉天皇から豊田郷を恩賞にもらった。
この時1062年に、平将門の豊田館跡を向石毛城として改修し「西館」(向石毛館近くの一盃館とも?)とすると、石毛館には長男・石毛広幹を配置したともされる。
石毛政幹(平政幹、豊田政幹、赤須四郎平政幹)の娘は、下総権介・千葉常重に嫁いでおり、千葉介・千葉常胤を儲けたようだ。
この千葉常胤は、1180年、源頼朝が挙兵した際の鎌倉入りに大きく貢献した。
筑波郡の上郷は台豊田と呼ばれた。
豊田と言うくらいなので、古くから田んぼが豊であったのだろう。
豊田将基のときに豊田氏に改名したともされる。
南北朝時代の1346年、豊田善幹(よしもと)は下総・豊田城を築いて本拠を移した。
向石毛城
また、多賀谷家譜によると、石毛城の豊田政治(豊田中務尉政治)が向石毛に支城を築き「西館」と称したとある。
ただ、この豊田政治は室町時代後期の武将と考えられ、豊田氏を称していることから下総・豊田城の当主か一族であったとも考えられるため、向石毛城を改修したといったところか?
下妻城主・多賀谷家植は、文明年間(1469年~1487年)に豊田中務尉政治の向石毛城を攻撃して降伏させたともある。
また、戦国時代に豊田氏の家臣・館宣重(館武蔵守宣重)が向石毛城を支配した。
館宣重(たてのぶしげ)の妻は渡邉周防守の娘なのでかなりの重臣(豊田氏の一族?)と推測できる。
永正年間(1504年~1521年)に、豊田政親の重臣・館武蔵守宣重が向石毛城の大改築を行ない、複数の見張塚を設けて、下総・豊田城と呼応して守備したとある。
1535年1月3日、多賀谷家重は向石毛城を急襲。(向石毛城の戦い)
正月の祝宴の隙を突かれたとある。
館武蔵守宣重は討死し、長子・播磨は母方の古間木城に落ち伸び、家臣の増田、松崎、大類、斉藤、草間、軽部などは石毛政重を頼った。
向石毛城跡に建つ法輪寺は、館宣重の遺児・播磨が仏門に入り向石毛城跡に再興した菩提寺とされている。
館播磨は1575年に古間木城が陥落すると多賀谷氏に降伏したとあるため、その後、仏門に入ったと考えられる。
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法輪寺の周辺一帯が向石毛城跡。
法輪寺の東に隣接する公園「将門公苑」には「平将門公本拠豊田館跡」の石碑が建てられている。
なお、石下町史によると北側のほうには「一盃館」と呼ばれている場所があり、地元では豊田氏の祖・平政基の館跡ともされているようだ。
となると、平将門の屋敷があったのも、そっちの一盃館だったのか?とも感じてしまう。
なにぶん、古い時代すぎるので、平将門の史跡の場合には戦国時代より難易度が高い。
交通アクセス
下総・豊田館(向石毛城)への行き方だが、関東鉄道・常総線の石下駅から1.1km、鬼怒川の石下橋を渡って約15分。
法輪寺の門のところに駐車スペースあり。
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