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東金城の解説~酒井胤敏(酒井敏房)が戦国時代に守った城跡

東金城

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東金城

東金城(とうがねじょう)は、千葉県東金市東金にある標高74m、比高40mほどの平山城。
別名は鴇ケ根城(ときがねじょう)、鴇ケ峰城、鴇峰城。

平安時代の1001年、大多喜城の薄井貞景(薄井遠江守貞景)が、東金・新宿に五十瀬神社を建立しているが、その頃、東金に武家の屋敷があったのかは不明。

1454年、鎌倉公方足利成氏関東管領・上杉憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発。
享徳の乱(1454年~1482年)の初期に、馬加康胤(千葉満胤の次男)を討伐するために美濃から下向した篠脇城主・東常縁の副将・浜春利(美濃国土岐氏一族)が拠点にしたと言う。(鎌倉大草紙)
浜春利は美濃に帰らず上総・東金城に入り、土気城主も兼ねたともされる。
<注釈> 兄・浜康慶が上総国の浜に領地を持っていたとも。

東金城

浜春利の子ともされる酒井定隆(さかい-さだたか) は鎌倉公方・足利成氏に仕えており、享徳の乱にて足利成氏が下総・古河城に移ると従っている。
吾妻鏡によると鎌倉時代に千葉胤正の2男・千葉常秀は、もともと千葉の境川(村田川)が本拠で通称「境」と呼ばれており、のち上総国武射郡境村(山武郡成東町)などに領地を得ると大柳館を本拠として「上総介」となり上総千葉氏の祖となった。
この千葉常秀(境常秀)の子孫が酒井氏とも考えられ、浜春利の妻が酒井氏?の娘ともされるため、子供らは酒井氏の名跡を継いだ可能性があるのではないか?
その方が「上総」の地を治めるのには都合が良い。

文明年間(1469年~1486年)に酒井定隆は安房の里見義実に援助を頼み、下総・小弓城の原氏の配下に加わり下総・中野城を築いた。
そして、境根の戦い、臼井城の戦いにて武功を挙げ、1488年(1478年?)、酒井定隆は土気城(2万8000石)に入ると上総・酒井氏となった。
のち、東金城主・酒井胤敏(酒井敏房)、土気城主・酒井胤治とわかれ、土気・酒井氏が誕生している。
1509年、土気城から田間城に移った酒井定隆。


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そして、諸説あるが最初の築城として酒井定隆(酒井小太郎定隆)が東金城に入ったのは1521年ともあり、これらの過程はほんとうに諸説あり、わからない部分が多い。
1521年、嫡子の酒井定治に土気城と家督を譲り、酒井定隆は3男・酒井隆敏とともに東金に移ったともある。
鴇ケ峯城じたいは室町時代に千葉氏が砦として築いたともされる。
なお、酒井定隆は領内全域の寺を日蓮宗に改宗したと伝わる。

酒井胤敏

酒井胤敏(さかい-たねとし) は戦国時代の武将で生年は不詳。
当初は酒井敏房と称していたが、小弓城の原胤清に従うと、1字を受けて酒井胤敏と改名したようだ。

1526年、酒井隆敏は、浜平野・依古島の上総・大関城主である畠山重康(畠山重忠の子孫)を滅ぼしている。
畠山重康の領地は2万800石、兵力は300ともされるが、酒井隆敏は家臣の石橋三左衛門、栗原兵郎亮らと軍議を開くと、忍者を放って守将・今関勘解由と山岸主税を寝返らせ、畠山重康を殺害させたと伝わる。
<注釈> 畠山重康はかつて士気城主であったが、酒井隆敏に追われて大関城に逃れていた模様。

1538年、第1次・国府台合戦では、小弓御所・足利義明に従い出陣するも敗北し、東金酒井の敏房が殿(しんがり)を務めたとある。


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1559年、東金酒井氏と上総酒井氏らは鎌倉の本興寺修造を行って、大檀那として棟札の筆頭に「酒井中務丞胤治」と記している。

1561年、上杉謙信が関東出兵すると、最初は下総・原氏と同様に北条氏康に味方して古河城の北条氏に援軍を出したものと推測される。
そのため隙を突かれて、小田喜城(大多喜城)の正木時茂によって東金城が陥落したようで、酒井胤敏は椎崎城に退いた。
<注釈> 正木時茂が東金の「酒井左衛門尉」(酒井胤敏)を調略して椎崎城に据えたともある。

正木時茂は原胤貞が守る臼井城と生実城も攻略し、旧城主・臼井久胤は結城城へ逃れている。
また、正木時茂は原胤栄の小弓城も落とし、鎌倉へ渡ると里見義堯と合流して長尾景虎の小田原包囲網の一翼を担った。

その後、上杉勢が関東を去ると東金酒井氏・山室氏・小金城の高城氏らは再び北条氏に帰属した。
<注釈> 東金城の酒井胤敏は、そのまま正木氏に属したともある。
なお、上総・土気城の酒井胤治は最後まで北条側だったとされる。

1564年、第2次・国府台の戦いで里見義弘が北条氏康に敗れる。
このとき、土気城の酒井胤治は引き続き北条氏に従っていたが、すぐに出陣しなかったので忠義を疑われ里見義弘に寝返り、敗走した里見義弘を助けている。

里見氏の重臣・正木時茂に属していた東金・酒井氏の酒井胤敏も、北条家に帰参したい旨を、臼井城の原胤貞へ伝えたようである。
しかし、原胤貞は激しく怒ったとあり、酒井胤敏はかつて指南を受けていたことがある、北条家の重臣・松田憲秀に嘆願したともある。
そのため、松田憲秀が原胤貞を説得して、酒井胤敏は東金城へ帰ることができたとされる。

一方で、土気城の酒井胤治は里見氏に寝返ったことから、何度も北条氏政から攻撃を受けた。
当然、 東金城の酒井胤敏(酒井敏房)も軍勢を出したわうで、河嶋新左衛門尉、市藤弥八郎、早野、宮田ら百余名が討たれたとある。

1574年、土気城の酒井胤治がついに北条氏に降伏。
以後、両酒井氏は北条氏に属して里見勢への攻撃に駆り出された。

晩年、酒井敏房は子の酒井政辰に家督を譲り、1577年、酒井胤敏(酒井敏房)は死去。


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酒井政辰(さかい-まさとき)は、土気城の酒井康治(やすはる)と共に北条勢として里見一族と戦っている。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めとなると、土気城の酒井康治と東金城の酒井政辰は小田原城へ参陣。
土気・酒井氏は300騎、東金・酒井氏は150騎ほど小田原城に入れ、千葉重胤とともに北条氏邦に属して早川口を守備した。

その間、士気城、東金城には浅野長政石田三成らの軍勢が押し寄せたようで降伏・落城。

この時の落城話として、酒井勢は合戦で集合する合図は、本漸寺の鐘を鳴らすことだったようで、浅井長政はわざと昼時に攻撃開始したと言う。
もちろん、敵襲を知らせる鐘が鳴ったのだが、畑仕事をしていた兵士らは昼の休憩を知らせる鐘だと思い東金城は簡単に落ちたともされる。
そのため、本漸寺では以後、鐘を鳴らすのをやめたと伝わる。


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酒井政辰は一時、東金城に戻ったが東金・北野幸谷の妙徳寺にて蟄居。
1603年に死去した。

<注釈> 里見義康だけは、豊臣秀吉のもとに馳せ参じたので安房一国を安堵されている。

子の酒井政成は1592年に徳川家の旗本となった。

江戸時代、東金は徳川幕府の直轄領となり徳川家康の御鷹場(鷹狩の場)に選ばれ、東金城跡には宿泊施設として「東金御殿」が建造された。
しかし、1630年の徳川秀忠以来使われなくなり、1671年に東金御殿は取り壊しされている。

また、1642年、東金は佐倉城主・堀田正盛の領地となったようだ。

八鶴湖の西に入口があり、説明板が建てられている。

交通アクセス

東金城への行き方だが、駐車場がある場所を当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。

このあとは鳴戸城(成東城)に向った。

成東城(鳴戸城)のちよこっと解説~最初の築城に諸説ある謎の城跡
大椎城のちょこっと解説~平忠常から千葉氏・上総氏へと発展した城跡


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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