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信濃・吉岡城の解説【下伊那最大勢力】下条信氏と弟・下条氏長

信濃・吉岡城

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信濃・吉岡城

信濃・吉岡城(よしおか-じょう)は、長野県下條村陽皐(ひさわ)吉岡にある平山城
最初の築城としては、文明7年(1475年)に、信濃・下条氏の下条康氏が築いたとされる。

信濃・吉岡城

信濃国伊那郡伊賀良荘は、のちに下条郷と呼ばるようになったが、信濃・下条氏の出自なども含めて不明なことの方が多い。
室町時代初期の甲斐源氏8代・武田信成の3男に下条武春(下条五郎武春)がおり、武田信成館から甲斐国下条荘に移ったと考えられるが、これが信濃・下条氏の始まりかも知れない。

いずれにせよ、甲斐源氏・小笠原氏の庶流になる初代・下条頼氏が1350年頃(1394年とも?)に富草古城(信濃・大沢城)に入った。
その後、信濃・下条氏は5代続いたが子が無く断絶。
このような経緯があり、深志城主・小笠原政康の子である下条康氏が、小笠原政康の没後に発生した小笠原氏の家督争いの中で、1470年に下条氏の養子になったようで名跡を継いだようだ。

下条信氏

1493年、鈴岡城の小笠原政秀が、飯田・松尾城(松尾館)の小笠原長貞と共に暗殺された際に、小笠原政秀の未亡人が生家の下条氏を通じて府中家の小笠原貞朝を頼って落ち延びたとある。
すなわち、鈴岡小笠原氏・小笠原政秀の妻は、下条氏の娘だったようで、下条氏は飯田に進出していた小笠原氏に従っていたことも伺える。

1534年、小笠原貞朝の子・小笠原長棟が、松尾城の小笠原貞忠を下して、信濃・小笠原氏を統一した。
小笠原長棟の弟の・小笠原信定が鈴岡城に入っている。
また、下条氏も、関氏を滅亡されるなど所領拡大を図り、下伊那最大勢力となった。

信濃・吉岡城

しかし、伊那・飯田にも武田信玄の手が伸びて来る。
1541年、父・武田信虎を駿河に追放して当主になった武田晴信は、1548年、信濃守護・小笠原長時を塩尻峠の戦いで破る。

1545年、武田信玄は杖突峠を越えて高遠へ侵攻し、信濃・藤沢城の保科正俊、福与城の藤沢頼親が降伏し、高遠頼継高遠城も陥落し、信濃・和田城の遠山氏も滅ぼされた。
この時、小笠原長時や下条時氏・下条信氏など伊那衆2000は、武田氏の信濃侵攻に抵抗したが食い止めることはできなかった。

下条信氏とは

下条信氏(しもじょう のぶうじ)は、下条時氏の子として1529年に生まれている。

1554年、ついに鈴岡城の小笠原信定が敗れ、このとき、信濃・吉岡城の父・下条時氏と下条信氏は武田家に臣従。
武田晴信の「信」の字を与えられているのと、加増も受けているので、攻略を受ける前に内通したものと推測できる。
下条信氏の妻としては武田信虎の娘(糟谷氏の娘?)を正室にしており、1552年に下条信正が生まれていため、鈴岡城が陥落するよりだいぶ前に武田家に臣従していた可能性がある。

なお、木曽福島城主・木曽義昌も1554年、武田家に降伏している。


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武田勢が伊那を制すると、下条信氏は、高遠城に入った秋山虎繁秋山信友)の配下に加えられたようだ。
また、山本勘助の嫡男・山本信共が目代(監視役)として吉岡城に入った模様。

ただし、神之峰城主・知久頼元、座光寺城主・座光寺頼近など一部の伊那衆が神之峰城に籠城して武田に反旗を翻している。

1557年の三河・武節城攻めに参加し、三河・白鳥城、三河・名倉城も攻略。
1561年、川中島の戦いに下条信氏も参戦。
なお、下条信氏は徳川家の石川数正酒井忠次とも姻戚関係があったようで、今川義元亡きあと、駿河を武田家と徳川家で分割する密約の使者として徳川家と交渉したようだ。

武田信玄の死後、1575年に武田勝頼足助城を攻略すると、下条信氏が足助城在番となっている。
その為、長篠の戦いには参じておらず、敗戦の知らせが届くと信濃・吉岡城に退却した。
また、三河にいられなくなり、武田勝頼を頼って亡命してきた山家三方衆(作手城の奥平氏長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼定忠)など一族らを与力にしている。

天正壬午の乱

1582年1月、遠山友忠を通じて木曽福島城の木曾義昌が武田勝頼から離反。
1582年2月、織田信長による武田領への侵攻が始まり、織田信忠の軍勢が迫った。
下條信氏ら下条一族は浪合口の要衝・滝之澤城?(平谷村)に入ったが、織田勢の河尻秀隆森長可に内通した下条信氏の弟・下条氏長、家中の熊谷玄蕃・原民部らが謀反を起こした。
<注釈> 下条氏長が留守の吉岡城を守備していたようだが、下条氏長の妻が織田勢を城内に引き入れたとも。

信濃・吉岡城

そのため、領内に留まることができなくなり、下条信氏と子の下条信正・下条頼安らは三河黒瀬(新城市・長篠城近く)に逃亡して徳川家康の保護を受けた。

武田滅亡後の1584年3月22日、嫡男・下条信正が父に先立って病死。享年32。
下条信氏は、石川家成?を頼ったのか、遠江国宮脇(静岡県掛川市)に移ったところで、6月25日に死去した。享年54。

下条頼安と下条信正の嫡男・牛千世丸(下条康長)が残されたが、飯田で下条氏を継いだ下条氏長は、松尾城主・小笠原信嶺の後ろ盾を背景にして専横極まりない状態だったようで、下条家の家臣が不満を持つように。

6月、本能寺の変により織田信長が横死して天正壬午の乱になると、飯田城にいた毛利長秀は尾張へ逃亡。
菅沼定利に協力を得た反対勢力(糟谷与五右衛門など)が、飯田城に入った下条氏長を暗殺した。
熊谷玄蕃、原民部、下条氏長の実弟で長岳寺住職の祐教も謀殺されたともある。
<注釈> 熊谷玄蕃は、三河・黒川城にて謹慎となった模様。

下条頼安と下条信正の嫡男・牛千世丸(下条康長)は、信濃・吉岡城に帰還し、以後、徳川家康に従った。
なお、下条頼安が当主を務め、信濃・箕輪城の藤沢頼親を徳川勢にするなどしたが、伊那国衆の多くは北条氏直に就いたため、下条頼安は飯田城にて奥平信昌らと共に籠城した。

やがて、甲斐国で徳川家康が有利になったため、伊那の諸将も徳川家に従うようになったが、長年対立していた小笠原信嶺とは深刻となったようで、2回ほど合戦もあった模様。

小笠原氏の菩提寺・開善寺と、下条氏の祈願寺・文永寺の住職らが仲裁し、小笠原信嶺の娘を、下条頼安に嫁がせることで和睦したが、1584年1月20日、小笠原信嶺の信濃・松尾城に年頭の挨拶のために赴いた下条頼安は斬殺された。享年29。

家督は牛千世丸が、徳川家康から一字をもらい「下条康長」と称して継いだが、まだ10歳だったようだ。
1585年、真田昌幸との第1次・上田城の戦いに、徳川勢として参陣した下条氏は、陣小屋で火事騒ぎを起こしてしまい謀反を疑われる。
幼少の下条康長に代わり家臣が弁明し一時は許されたが、失火の原因を作った重臣・佐々木新左衛門が徳川家康に直接訴えたようだ。
恐らく、下条氏の家臣団も権力争いが続いていたと言う事だろう。
そのため、下条氏の重臣らは駿府城に呼び出されるもと弁明に困り、下条康長は徳川家によって飯田城にて謹慎となった。
1587年3月、下条康長は家臣に連れられ他国へ去り下条氏は没落している。


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吉岡城は江戸時代に入ると代官所として利用されたようだが、寛永年間(1624年~1644年)に破却されたようだ。

交通アクセス

信濃・吉岡城への行き方ですが、吉岡城城址公園として整備されており、未舗装の駐車場(5台ほど)と、公衆トイレ・公衆電話もある。
ただし、2Dの地図で見ると、国道の脇になっているが、実際には、国道は「切通し」のように通過しており、高い場所にある吉岡城跡を分断しているような感じだ。
そのため、国道151号から城跡には直接入れないので、信号がある場所を東か西に曲がり、細い道を進んでいく形になる。

駐車場の場所などは、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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