上総・勝浦城
上総・勝浦城(かつうらじょう)は、千葉県勝浦市浜勝浦にある海城・丘城で標高と比高は約30mになる。
勝浦湾の東南から太平洋に突き出た天然の崖(八幡岬)に築かれたようだ。
最初の築城は不明だが、戦国時代の1521年、真里谷城主・真里谷信興(真里谷信清?)が、里見義堯に対抗するため築いたとされ、一族である真里谷朝信(武田信清)が守ったともある。(武田場という字名も残る)
だいたい、戦国時代に築いたとする城跡は、それ以前から簡単な砦や見張り台として使われていたことも多いと存ずる。
しかし、勝浦の市街地から離れた辺鄙(へんぴ)なところで、近くにはとても住めないため、上総・勝浦城は、戦闘が激戦となる戦国時代に築かれたのかな?と思わせる立地だ。
ただ、よくよく調べてみると、なんと平安時代中期、平将門の副将・興世王が築いた砦であったともされる。
そして、鎌倉時代には上総広常の支城であったと伝わるようだ。
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戦国時代に話を戻すと、里見義堯に従っていた正木時茂が、上総・真里谷氏の攻略の過程で1542年に勝浦城を手に入れたようで、弟・正木時忠が上総・勝浦城に入った。
その後、正木一族は1544年に大多喜城の真里谷朝信を攻略し、勝浦の正木時忠は勝浦・正木氏と呼ばれ、大多喜城に入った兄・正木時茂は安房・正木氏と分かれた形になっている。
正木時忠
正木時忠(まさき ときただ)は、戦国時代の1521年に正木通綱の3男として生まれた。
前述したとおり兄に正木時茂がおり、子に正木時通、正木頼忠などがいる。
正木時忠は、勝浦にて外房の水軍を指揮したようだが、大多喜城の兄・正木時茂をよく補佐していたと言う。
1556年には里見水軍を指揮して三浦三崎に渡ると北条氏と戦っている。
しかし、兄・正木時茂の死後、大多喜・正木氏は弱体化したため、正木時忠は里見義弘からの脱却を図り、小田原城の北条氏康に接近した。
1560年には、正木時忠が下総へ侵攻して粟飯原氏の居城である小見川城を手に入れた。
1564年、第二次国府台合戦にて里見氏が北条氏に大敗。
1565年3月、北条氏政が上総に侵攻した際に、正木時忠はいち早く参陣しており、北条家に子で12歳の正木時長(正木頼忠)を人質として出した。
<注釈> 正木頼忠は小田原で暮らすも北条氏隆の娘・智光院を正室にするなど優遇された模様。
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また、正木氏は八王子城の北条氏照より物資などの支援も受けたようだが、1567年、三船山の戦いにて北条勢は里見義弘と正木憲時に大敗している。
更に北条氏は武田氏との争いが激化したため、里見氏攻略を断念し房総半島から手を引いた。
これにより、里見氏とのパワーバランスは崩れ、更には北条傘下の千葉胤富を攻撃したため正木氏は孤立。
時期が不明だが、里見氏が勝浦城を猛攻撃して落城されたともある。
1574年に、正木時忠は再び里見氏の軍勢として出陣していることが見えるため、里見氏の傘下に復帰した模様。
1576年8月1日、正木時忠は死去。享年56。
墓所は南房総市の正文寺。
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なお、嫡男・正木時通も1575年に急死していたため、家督は小田原にいた正木頼忠が房総に戻って継いだ。
正木頼忠
正木頼忠(まさき よりただ)は、1551年に正木時忠の5男として生まれ。
母は、糟谷能登守の娘。
前述したとおり、12歳のときに小田原城に送られて、北条家の人質となっていた。
その後、正木氏は裏切って里見氏に帰属しますが、すでに相模・久野城主(久野屋敷)である北条氏隆の娘(北条氏尭の誤伝、または田中泰行の娘で北条氏尭の養子とも?、板部岡江雪斎の姉?)と結婚していたことからか?、殺害されずに監視のもと許されていた模様。
そして、勝浦・正木氏を継ぐ者がいなくなったため、里見氏や北条氏の意向もあり、無事に上総・勝浦城に戻り家督を継承したようである。
家督を継いだ際に、正木時長から正木頼忠と改名したと考えらられるため、里見義頼から字をもらった可能性があるだろう。
ただし、北条氏隆の娘・智光院との間に生まれた子の三浦為春、お万の方(養珠院)ら妻子は相模に残されたと言う。
1578年、里見義弘の死後、梅王丸と里見義頼との間で家督相続争いになると、正木頼忠は里見義頼にを支援して当主への擁立に尽力。
それに不満を持っており、大喜多・正木氏を継いでいた正木憲時が、1580年、里見義頼に反乱を起こす。
このとき、上総・勝浦城は、正木憲時の攻撃を受けて落城したとされる。
また、正木頼忠は葛ヶ崎城を攻略し、正木憲時に味方する義弟・正木道俊の安房・金山城を攻撃して興津城に敗走させたともある。
1581年、正木頼忠は里見義頼と一緒に大多喜正木氏を攻め滅ぼして、勝浦城に復帰すると継室としては里見義堯の娘を迎えている。
1587年、小田原で人質になっていた正木直連と三浦為春を上総に呼び戻すが、前室の智光院は伊豆・河津城の蔭山氏広に再嫁し、於万(蔭山殿)は蔭山氏の養女となって育てられた。
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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に里見義康は安房4万石に減封されて安房・館山城に入り、上総・大多喜城には本多忠勝が入った。
理由がわからないのだが、1590年8月15日に、本多忠勝が安房・勝浦城を攻撃したとあり、勝浦城は落城したとある。
<注釈> 植村泰忠が安房・勝浦城を攻撃したともある。この植村泰忠は、本多忠勝の与力であり上総国夷隅郡勝浦にて3000石となって勝浦城を廃城とするが勝浦発展の基礎を築いた。
実際問題、里見氏が上総を失ったため、勝浦正木氏も上総から安房に去り、里見氏のもと2000石となると鴨川の成川に環斎屋敷と伝わる屋敷に退去したと考えられる。
この勝浦城落城がのちに「お万の布晒し」の伝承を生むことになった。
お万の布晒し
養珠院(お万の方)は、1584年に母が蔭山氏広と再婚したことで、蔭山氏の伊豆・河津城に移ったと考えられる。
1590年、小田原攻めの際に、養父・蔭山氏広は山中城の戦いに加わるも敗走して、河津城に戻ったあと、伊豆・修善寺にて蟄居したと伝わる。
そして、8月15日、本多忠勝が安房・勝浦城を攻撃した際に、14歳になっていたお万は、炎上する勝浦城から 母と幼い弟を連れて八幡岬の東側40mの断崖に「白い布」繋いでロープがわりにすると、崖を降りて海から小舟で館山方面(伊豆にも?)に逃れたの伝承がある次第。
これが本当だとすると、正木頼忠の最初の妻とお万の方は、駿河・山中城が落城したあと、正木氏を頼って勝浦に逃れていたと言う事になる。
推測に過ぎないが、1580年に正木憲時が勝浦城を攻撃した際に、4歳のお万が母(乳母?)と共に崖を下って逃げたとも考えてしまう。
1593年、17歳のお万の方(蔭山殿)は、伊豆・韮山の江川英長(江川太郎左衛門)に見出されて、三島本陣での宴席にやってきた徳川家康の接待を行った模様だ。
<注釈> 柿田川のほとりで徳川家康と出会ったともされる。
そして、徳川家康に気に入られた於万の方(蔭山殿)は、源氏である江川英長の養女となって、徳川家康の側室になった。
伏見城にて1602年には徳川頼宣(紀州徳川家の祖) を、1603年には徳川頼房(水戸徳川家の祖)を出産している。
蟄居していた正木頼忠は、於万の方が徳川家康の側室になったことで徳川家への仕官の道が開けたが自身は固辞し、次男・三浦為春が3000石にて出仕に応じた。
<注釈> 正木氏はもともと三浦一族なので徳川家康から正木姓を改めて三浦姓に復することを許された。
のち三浦為春は、徳川頼宣の重臣となり紀伊国那賀郡貴志邑にて1万5000石と小藩主並の待遇を受けた。
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江戸時代になると、安房・館山藩主・里見忠義から正木頼忠は里見氏一門扱いを受けており、1604年、家督を継ぐ立場の長男・正木直連が松平忠吉(徳川家康の4男)の家臣になっている。
1612年、駿府城にて大御所・徳川家康に拝謁するがなおも出仕せず、里見氏に身を寄せた。
<注釈> その頃、実践経験のある武将は貴重な存在のため、のちの豊臣秀頼との決戦を前に歴戦の武将は、両陣営とも欲しかったと考える。
1614年、里見氏は改易となっ倉吉に移ると以後は三浦為春を頼った。
1622年8月19日、正木頼忠は紀伊にて死去。享年72。
上総・勝浦城があった場所は現在「八幡岬公園」として遊歩道が整備されている。
しかし、まさに岬の公園と言う雰囲気であり、城郭の遺構はほとんど見えない。
遊具もある子供の広場は、恐らく館(屋敷)があったと考えられ、風よけにも良い窪地であることから、本丸として機能していた可能性が高い。
でも、遊歩道を奥へと進むと先端に出て、お万の方の像があり、太平洋の展望も素晴らしい。
この先端部分は物見の砦で間違いないだろう。
しかし、千葉は房総半島の南側が安房で、勝浦に来ると上総(かずさ)、古河の方まで下総(しもふさ)と、昔の行政区分を理解するのが大変だ。(下記参照)
勝浦の地名の由来は、勝占の忌部(阿波忌部族)、勝占忌部(かつらいんべ)氏が住んだことからとなる。
<注釈> 忌部(いんべ)とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った氏族のこと
交通アクセス
上総・勝浦城への行き方ですが、JR勝浦駅から徒歩5分くらいのKAPPYビジターセンターにて、レンタサイクルもある模様。
駐車場までは坂道となるため、電動式自転車がお勧めだ。
タクシーだと15分くらいの距離。
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八幡岬の駐車場が無料で利用できるが、トンネルを抜けた先にある。
ためらわずにトンネルへ入って頂きたい。
駐車場を抜けたところが登城口となる。
見学所要時間は約30分くらい。
行き方は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けると幸いだ。
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