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河津城 伊豆・河津郷の河津桜を見下ろす山城

河津城

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河津城とは

河津城(かわづ-じょう)は、静岡県賀茂郡河津町笹原にある標高181mの大日山にある山城で、比高も約180mと堅固です。
最初の築城としては、蔭山広氏(蔭山勘解由広氏)が築城したとされます。
この蔭山広氏は、鎌倉公方・足利持氏の7男とされます。
1439年、関東管領・上杉憲実と、父・足利持氏の対立が深まり、永享の乱となると、敗れた足利持氏は幽閉され最後は自刃しました。
このとき、乳母に連れられ河津の地に落ちのびたのが3歳だった蔭山広氏のようで、成長すると、そのまま河津の蔭山氏の婿入りすることになったそうです。


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伊豆・河津城の麓にある姫宮神社(笹原明神)がある場所が、蔭山氏館跡になりますので、山城の河津城は詰の城だったのでしょう。
河津郷の領主としては、平安時代末期に河津祐泰(かわづ-すけやす)と言う、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成・曾我時致の父も見受けられます。

その後、蔭山広親・蔭山広忠・蔭山家広・蔭山忠広と続きますが、1491年、伊豆の足利茶々丸を滅ぼした北条早雲が、河津城を麓から火攻めして炎上させ落城したとあります。
この時、蔭山氏は、消火するため籠城米を巻いたとされ、今でも、焼き米が出土することがあると言います。
そして、蔭山氏は、小田原城の北条家に臣従しました。

河津城

蔭山氏広は、1584年に、北条氏隆の娘を正室に迎えていますが、この母は、最初、勝浦城主・正木頼忠に嫁いでいたようです。
その際、1577年に、お万の方(於万の方)を産んでおり、父・正木頼忠と離縁となり、小田原に入ったようです。
その後、北条氏隆の娘は蔭山氏広に再嫁して、於万の方と一緒に、河津城に入りましたが、1584年、北条氏隆の娘は蔭山貞広を産んでいます。


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1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際、蔭山氏広は山中城の籠城に加わった模様です。
山中城が落城した際には脱出して河津城に戻ったようですが、下田城を攻略した豊臣勢の水軍に降伏し、蔭山氏は家族と伊豆・妙国寺にて謹慎したようです。

河津城

1593年、三島にて、於万(蔭山殿)は徳川家康に見初められたようで、側室として寵愛を受けるようになりました。
のち、1602年には、紀州・和歌山藩主となる徳川頼宣、1603年には水戸徳川家となる徳川頼房を伏見城にて産んでいます。
これらの縁もあり、義弟・蔭山貞広(かげやま-さだひろ)は、1200石にて徳川家の旗本となり、下田奉行などを歴任しました。


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伊豆・河津城への交通アクセスや行き方ですが、河津駅から5分ほどのところに、登山口があり、河津城跡公園としてハイキングコースが整備されています。

街から登ること約20分といったところです。
駐車場は、河津駅近くにいくつかコインパーキングがあります。
ただし、2月中旬~3月上旬頃の「河津桜まつり」期間中は、満車で止めることは難しいですのでご注意を。
まぁ、花見も兼ねて赴くのがベストだと存じます。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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