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高久田館 (陸奥・鹿島館)「南高久田館」二階堂氏の家臣・高久田氏などのちょこっと歴史解説

高久田館




高久田館

高久田館(たかくだ-やかた)は、福島県岩瀬郡鏡石町鹿島にある館跡(平城)で、高久田館ともされます。
新しく広い道路が、館跡付近を通りそうでして、改変されないうちに、写真だけ収めに訪問させて頂きました。

陸奥・鹿島館

高久田氏は、二階堂氏の家臣で、鏡石町高久田が本貫だったようで、高久田館に関連する武将(可能性がある武将)としては下記の名が見受けられます。

鹿島八郎
須田大蔵
矢部紀伊守公為 (箭部紀伊守公為)
高久田主殿
高久田義兼 (高久田四郎義兼)

高久田館 (陸奥・鹿島館)

まず、二階堂為氏の下向に従った家来に、鹿島隼人がいるようです。
戦国時代須賀川城にて籠城した二階堂家の武将に、鹿島彦八郎がいます。
この2人は、高久田館との関連性は不明ながら、鹿島村(岩瀬郡鏡石町鏡田字鹿島・東鹿島)とは、関係がないとも言い切れないところです。





須田大蔵に関しては、二階堂氏の重臣で、陸奥・和田城の須田氏の一族と考えられますが、やはり、須賀川城に籠城しています。
ただし、須田大蔵と高久田館との接点に関して、裏付けは取れていません。

上記の矢部公為(やべ とめため)は、二階堂氏の重臣・矢部氏の一族と推測できます。

1339年、奥州評定衆のひとりである、藤原英房(藤原式部少輔英房)と、道存家人・矢部又次郎が、岩瀬郡河東郷大栗・狢森の所領を争ったという古文書が残っています。
そのため、当時すでに、木船城主・矢部氏は、大栗村と狸森村を本領とする行村系二階堂氏の家臣であったことが分かります。
この須賀川の矢部氏が、いつ頃、赴任したのかは不明ですが、三浦義明の次男・三浦義澄の系列の後裔=三浦一族津久井氏系と考えられます。
戦国時代には、矢部主税祐-矢部越前守-矢部常貞(矢部伊勢守常貞、弟に矢部貞武・矢部貞徳)-矢部盛貞(矢部下野守盛貞)と続いたようです。

今泉館 — 矢部主税祐 (やべしゅぜいのすけ)
 子に矢部越前守 → 子に矢部伊勢守常貞 (やべつねさだ)、3男・矢部貞徳 (やべさだとく)
 矢部下野守盛貞 (やべもりさだ) ~ 矢部常貞の子で1588年、今泉館の戦いで敗れる。

越久館 — 矢部豊前守義久(やべよしひさ) ~ 1589年から伊達政宗の家臣に

木船館 (狸森館) — 矢部義政(矢部上野守義政) ~ 二階堂家四天王、その後、伊達政宗の家臣

矢部宮内(やべくない) ~ 蘆名氏一族で越後・津川城主である金上盛備の家来

矢部館(須賀川市浜尾) — 矢部周防守 ~ 弟に矢部伊勢守

他には、矢部盛貞と言う名も見られます。





高久田館主になったと考えられる、矢部公為 (箭部公為)の家臣(家来)は下記。
味戸隼人(あじとはやと)、込山左馬之介(こめやまさまのすけ)
家来の名が伝わっていると言う事は、それなりに家臣を抱えていた大将であったとも推測できます。

1589年、須賀川城に籠城した矢部氏は下記の通りです。

浜尾城 — 矢部主膳(やべしゅぜん) ~ 和田館主・須田盛秀に従い須賀川城に籠城
矢部伊予守
矢部紀伊守
矢部掃部助 ~ 子の矢部織部、矢部源五郎、矢部右馬丞、矢部蔵人丞

上記のとおり、矢部紀伊守も、阿南姫と須賀川城にて籠城したとありますが、高久田館(陸奥・鹿島館)の、矢部紀伊守公為 (箭部紀伊守公為)と同一人物の可能性も高いです。

現在の高久田館跡は、農地(畑)になっていますが、すぐ脇に小さな川が流れています。
その川の名称は、須賀川市の地名にもなった「須賀川」でして、下流に向かいますと、須賀川城・岩瀬山城に繋がっていることから、人が移動するくらいは、小舟で往来できたのかも知れません。

須賀川

その須賀川の上流には、南高久田館があります。

南高久田館

南高久田館は、鏡石町鏡田字南高久田にある館跡(平城)です。
現在は、農地(畑)になっています。

南高久田館

南高久田館の城主(館主)は、伝わっていませんが、高久田氏の城(館)であったことは、間違いなさそうです。
しかし、それ以上、詳しいことは不明です。

南高久田館

高久田義兼と、矢部紀伊守は、同時代に存在していた可能性がありますので、どちらかが、南高久田館主だったのかも知れません。

常松氏

南北朝時代から戦国時代にかけて、東北の二階堂氏の家臣に見られる、常松氏に関して、詳しく調べてみました。
常松氏は、常松氏系図によると、村上源氏赤松氏が出自とある。
それが正しいと、村上源氏・源定房(堀川大納言定房)の孫である源師季(みなもと の もろすえ)から始まる名門となる。
播磨・白旗城の赤松則村の次男・赤松貞範(あかまつ さだのり)は、足利尊氏に従い、1336年、箱根・竹ノ下の戦いで勝利に貢献し、加増も受けています。
また、1346年、姫路城の元祖となる姫山城を築きました。
1349年には、播磨・庄山城を築いて移っています。
赤松氏の当主である兄・赤松範資が1351年に急死すると、足利尊氏は、家督と播磨守護を、弟の赤松則祐に継がせました。
赤松貞範は、1356年に、美作国守護となり、守護大名となりましたが、赤松家においては家督争いに敗れた形となっており、2代将軍・足利義詮は、1363年に、美作国守護も山名時義に任じます。
1370年、赤松貞範が没すると嫡男・赤松顕則は、篠の丸城から播磨・庄山城に移りましたが、1372年に没したため、赤松顕則の次男・赤松則貞が継いだとあります。
その後、赤松則貞は八重鉾山城に移ったともされます。





なお、1372年に没したともされる赤松顕則は、三春・田村氏の話によると、 嘉慶年間(1387年~1389年)に、陸奥・常盤城(常葉城)の城主になったともあり、常盤顕則と言う名でも見受けられます。
感触としては、赤松顕則が亡くなったあと、子の誰かが、田村氏を頼って、陸奥に移ったのかな?と感じますが、赤松氏と田村氏は、親戚だったと言う話もあります。
ちょうど、その頃の田村地方は、藤原姓の田村庄司家が支配していましたが、1395年頃、田村庄司の乱にて、鎌倉公方・足利氏満に敗れています。
そして、三春・田村氏が台頭してくるようになりますので、その前後に、赤松顕則か、その子孫が、陸奥の田村氏のもとで、活躍したのかも?知れません。

そして、陸奥に移った赤松氏は、常磐氏(常葉氏)を称した訳ですが、その庶流(一族)は、二階堂盛重の家臣となって、須賀川市の平館に居住して常松義時と称したとされます。
田村領から、常磐氏(常葉氏)の一族が、二階堂氏のもとに移って、常松義時になったと言う事なのですが、どうしてなのか?、その理由や接点は、まったく不明といったところです。

須賀川においては、1528年に、常松義清が、前田川館を佐藤但馬守に明け渡し、岩淵館(常松館)に移ったともあります。
また、常松義清の4男が、高久田氏(高久田主殿)の養子となり高久田義兼(高久田四郎義兼)と称して、高久田館に入ったともあります。
主殿(しゅでん)と言うのは、最も、重要な建物と言う意味なので、高久田氏は一族がいて、その宗家にあたる、高久田主殿の養子になったと考えて良いでしょう。
そのため、高久田主殿は、高久田館主の可能性がある、他の武将の誰か(矢部紀伊守など)を、差している可能性もあります。

岩淵館(常松館)主としては、他にも、二階堂照行に誅伐された岩淵紀伊守、その後には浜尾尾張守、そのあとに、常松義盛(常松縫殿介義盛)ともあります。

1589年、伊達政宗による須賀川城攻めでは、常松氏は岩瀬西部衆と共に伊達軍へ寝返り、江戸時代には、仙台藩士として残ったようです。
また、鏡石では、庄屋となった常松氏も存続した模様です。

一方、三春のほうでは、1589年、陸奥・常盤城(常葉城)の常盤貞久(常磐甲斐守貞久)が、三春城田村清顕より毒殺されそうになり、常盤城(常葉城)5000石を捨てて逃れたともあります。

鏡石鹿嶋神社

鏡石鹿嶋神社(かがみいしかしまじんじゃ)は、1571年に、高久田館主の箭部紀伊守公為が、高久田村総鎮守として創建しました。
なんでも、高久田舘主・箭部紀伊守の「兜」の前立が、御神体になっているようです。

鏡石鹿嶋神社

須賀川や、二本松城、三春城、白河小峰城など、この周辺は、小さな館がたくさん点在しています。

鏡石鹿嶋神社

高久田館 (陸奥・鹿島館)、南高久田館、鏡石鹿嶋神社など、それぞれの場所は、当方のオリジナル東北地図にて、ポイントしております。
スマホで表示して、目的地としてタップし「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。

須賀川城の歴史がよくわかる解説~おんな城主・阿南姫が指揮した籠城戦
岩瀬山城のちょこっと解説~須賀川を見下ろす平山城
三春城の解説【続日本100名城】田村隆顕・田村清顕





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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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