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三河・知立城の解説【どうする家康】徳川家康の次男・結城秀康の生母である於万の方ゆかりの地

知立古城の看板

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三河・知立城とは

愛知県知立(ちりゅう)市にあった知立城は、知立神社の神官である永見氏の城館です。
知立神社の歴史は古く、第12代景行天皇の時代に、東国平定に赴いた日本武尊が戦勝祈願をし、東国平定が成った後の景行42年(112年)神武天皇の父神などを祭神として祀った事が始まりであり、国史や延喜式などにも記載されている由緒ある神社で、『参河国名所図会』では「さなげ社伝に云、一宮とか神社(砥鹿神社)、二宮知立神社、三宮さなげ神社(猿投神社)」と記載があり、江戸時代には東海道三大社(三島大社、熱田神宮、知立神社)の一つとして数えられ、周囲にも大きな影響力を持っていました。
日本武尊の像
〇矢作神社脇に建つ日本武尊の像

白鳳2年(674年)三河国造(みかわくにみやつこ)知波屋見命の15世孫にあたる永見貞連(ながみ-さだつら)が天武天皇の命によって知立神社の神主になり、永見氏による知立一帯の支配が始まります。
知立神社由緒
〇知立神社由緒

歴史

平安時代後期、13代当主の永見貞春(ながみ-さだはる)は保元・平治の乱に参戦。
室町時代に入ると22代当主である永見清貞は現在の西尾市饗庭(あいば)に居館を構え、三河守護吉良氏の重臣である大河内氏の娘を娶り、室町幕府4代将軍である足利義持から神主領などを安堵する朱印状を受けており、25代当主の永見貞守(ながみ-さだもり)の弟である永見為房(ながみ-ためふさ)とその息子である永見貞吉(ながみ-さだよし)は水野家に仕えて、足助氏を攻めるなど豪族としての力も持つようになります。


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天文16年(1547年)今川義元(いまがわ-よしもと)の勢力が三河に及び、知立神社の社殿などが焼失。28代当主の永見守重(ながみ-もりしげ)は水野氏との関係を深めるために水野家の菩提寺に田畑を寄進した上で、29代当主の永見貞英(ながみ-さだひで)は水野忠政(みずの-ただまさ)の娘を妻に迎えた上で、妹の一人を水野信近(みずの-のぶちか)に嫁がせるなどして、水野氏との関係を深めていきますが、天文23年(1554年)には重原城を落とされるなど今川氏の勢力拡大によってその傘下に入る事になります。
重原城の看板
〇重原城の看板

永禄3年(1560年)今川義元は軍を率いて尾張へ向けて進軍を開始。
その途中で知立城に滞在し、翌日は沓掛城に向けて出発しますが、桶狭間で織田信長(おだ-のぶなが)の手によって討ち取られ、知立城は敗走する今川軍を追う織田軍によって戦火に包まれ落城する事となりました。
一旦は荒廃した知立神社と知立城ですが、天正年間(1573年~1593年)には刈谷城主の水野忠重(みずの-ただしげ)によって知立神社が再建され、御殿と呼ばれる建物も建てられました。
看板拡大(知立神社と御殿)
〇知立古城看板に描かれた御殿と知立神社の部分を拡大

天正元年(1573年)徳川家康は正室である築山殿の侍女として仕えていた於万の方(於万の方の叔母は徳川家康の生母である於大の方なので、二人は従兄妹になる)を側室とし、於万の方は翌年に後の結城秀康(ゆうき-ひでやす)を産みますが、実は双子でした。
当時は双子以上で生まれると犬畜生と同じとして忌み嫌われていたため、もう一人は於万の方の兄で30代当主の永見貞親(ながみ-さだちか)の養子となり永見を継ぐ事になります。

天正10年(1582年)織田家の甲州征伐によって武田氏滅亡し、織田信長が凱旋する途中、水野忠重(みずの-ただしげ)が池鯉鮒(知立)の地で饗応しているという記録があり、この頃には鎌倉街道沿(※注1)いの町としての繁栄を取り戻していたと思われます。
余談になりますが、慶長5年(1600年)水野忠重は徳川家康の会津征伐中は三河国に留まり、浜松から越前に戻る堀尾吉春を池鯉鮒の地で歓待しますが、同席した加賀野井重望(かがのい-しげもち)によって殺害され、堀尾吉春も手傷を負いますが、加賀野井重望を討ち果たしています。
水野忠重の嫡男である水野勝成(みずの-かつなり)は会津征伐軍に同行していましたが、徳川家康の命で帰国して刈谷の地を相続。後に福山藩主と出世していきました。
池鯉鮒本陣跡の看板
〇池鯉鮒本陣の看板

※注1
東海道は江戸時代にはいってから整備された街道で、当時は鎌倉街道が幹線道路でした。

江戸時代に入り、東海道が整備された後も知立神社の門前町として、39番目の宿場町の役割を担い、御殿は将軍家の宿泊所や休憩所として使用されていましたが、元禄12年(1699年)の地震で倒壊し、それ以降再建される事はありませんでした。
東海道の碑
〇東海道の碑

交通アクセスと登城

推奨ルート:
※知立神社以外は駐車場は無いため、公共交通機関での訪問をお勧めします。
※公共交通機関を利用する場合、名古屋鉄道知立駅の北口改札を利用します

知立駅→(徒歩5分)→池鯉鮒本陣跡→(徒歩3分)→知立古城→(徒歩5分)→知立神社

・池鯉鮒本陣跡
知立市本町本49-2
県道51号知立東浦線の脇に碑が建つのみです。
池鯉鮒本陣跡の碑
〇池鯉鮒本陣の碑

・知立城
知立市西町西11
西町児童遊園の中に知立古城の看板と碑、将軍休泊用御殿跡のモニュメントが建てられています。
知立古城城址碑
〇城址碑

・知立神社
知立市西町神田12
境内には国宝となる多宝塔などがあり、西側にある総持寺は於万の方の出生地となっています
多宝塔
〇多宝塔

多宝塔の看板
〇多宝塔の解説看板

その他の関連施設
・知立市歴史民俗資料館
知立市南新地2丁目3-3
知立駅南口から徒歩約10分程度にある知立図書館内に併設されており、池鯉鮒宿の模型なども展示されています。

小松
知立市西町本田76-1
元は知立駅の西側に位置していましたが、平成19年に区画整理事業のため移転しています。
境内には永見貞愛の墓が立てられています。
永見貞愛の墓
〇永見貞愛の墓


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・矢作神社
岡崎市矢作町宝珠庵1
国道1号線に掛かる矢作橋西岸の北側に位置しています。
橋に隣接するように豊臣秀吉蜂須賀小六の出会いの像が立てられています。
出会いの像
〇出会いの像

(寄稿)だい

三河・重原城の解説~黄金埋蔵伝説と天守閣予定地の碑
三河・伊奈城の解説~徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の地
三河・大給城の解説~巨岩が残る中世山城の名城
愛知県「源頼朝」由来の地をめぐる~生誕地・熱田神宮周辺など
三河・川尻城の解説 ~いざ奥平家を再興へ!~

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だい

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愛知県在住の会社員です。
休日には県内の城巡りをしており、愛知県内にある1,300以上ある城館を全て制覇する事が当面の目標。
モットーは「どんなマイナーな土地にも歴史はある!」
愛知県出身の有名武将は数多く存在しますが、それ以上にマイナーな武将や城も多数存在しています。
そんなマイナーな武将やお城を歴史好きの皆様にご紹介できるような記事を書いて行きたいと思います。

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