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横地城の解説~450年続いた名門も横地秀国のとき滅亡する

横地城

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横地城とは

横地城(よこち-じょう)は、静岡県菊川市東横地にある山城で、標高は約100m、比高80mほどになります。
横地氏城館跡は、牧の原台地の南西端に位置し、谷部と丘陵部を利用した天然の要害です。

横地城

別名は、金寿城(きんす-じょう)、横地氏城館と言いますが、明確に大規模な遺構が残っていることから、菊川城館遺跡群(高田大屋敷遺跡・横地氏城館跡)として、国の史跡に指定されています。
横地氏の初代は、平安時代末期の横地家永(横地太郎家永、1052年~1126年)とされ、一説では、源頼義の子である源義家(八幡太郎義家)の落し子と言います。
なんでも、源義家が、永承6年(1051年)、奥州で発生した、前九年の役に、出陣した際に、見付(磐田市)にて大雨にあい20日ほど逗留したと言います。
その時、相良荘司・藤原維頼(藤原光頼とも?)の娘が、源義家の世話をして寵愛を受け、のち男子を出んだのが横地家永とされます。
となると、相良(さがら)の領地の一部が、横地であり、その男子が横地に入って横地家永と称した可能性もあるでしょう。
横地家長の子・横地頼長は本家を継いで2代目となり、次男は勝間田次郎と名乗り榛原郡勝田庄に居館を構えました。
こうして、横地氏と勝間田氏は、源氏の同じ一族として、戦国時代まで続くことになります。


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3代の横地長宗(横地太郎長宗)は、保元の乱の際に、後白河天皇方に味方して活躍しました。
4代、横地長重(横地太郎長重)は、源義経に味方して、壇ノ浦の戦いなど、平氏滅亡に貢献しています。
5代の横地長直(横地太郎長直)は、鎌倉幕府の御家人として、京都御所にて警護などに当たったようです。
6代、横地師重(横地太郎師重)は、弓の名手とされ、鎌倉・鶴岡八幡宮の弓始儀式なども担当しました。
7代の横地師長(横地太郎師長)は、従五位下、山城守として見られ、反幕謀反に勲功

横地城

8代、横地長国(横地太郎長国)の頃は、足利尊氏の倒幕軍に加わっていたようで、赤坂城の戦いや、笠置城攻めなどで武功を挙げました。
9代の横地長則(横地太郎長則)は、南朝に味方した、井伊城(三岳城)を攻めています。
10代、横地家長(横地太郎家長)は、九州探題・今川了俊に従って、南朝の菊池氏と戦いましたが討死したようです。
11代になった横地長豊(横地太郎長豊)は、横地遠江守として見られ、室町幕府将軍の御供衆となり、京都に滞在したようで上杉禅秀の乱にも参じています。
12代、横地長泰(横地太郎長泰)は、足利持氏討伐の永享の乱にて、箱根・水呑の戦いの際に、討死しました。
13代の横地長秀(横地太郎長秀)も、将軍の御供衆として、足利義政に仕えましたが、応仁の乱で痛い敗北を喫し勢力を弱めました。
14代となった、横地秀国(横地太郎秀国)は、駿河守護・今川義忠に従っていました。
しかし、今川義忠が、磐田の見付城を攻略するなど、遠江への進出をはじめるようになり、危機感を抱いた横地秀国は、一族の勝間田城主・勝間田修理亮と共に、遠江守護・斯波義廉に寝返りました。
そのため、1476年(文明8年)、横岡城などと共に、勝間田城と横地城(金寿城)は、今川義忠の攻撃を受けて落城しています。


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ただし、横地城の横地氏と勝間田氏の残党は、遠江小笠郡塩買坂(静岡県菊川市)の塩買坂での戦いにて、今川義忠を襲撃しました。
馬上にいた今川義忠は、流れ矢に当たって討死し、僅か4歳の今川氏親が跡取りだったため、今川家では家督争いとなりました。
そして、今川氏親の母は、北川殿と言い、弟・伊勢盛時を、駿河に呼んで、家督争いを有利に進めます。
こうして、今川家にて活躍した伊勢盛時は、興国寺城を与えられ、伊豆に進出したのち、小田原城にて独立を果たし「北条早雲」として知られたのです。

横地城

落城の際、2歳だった横地元国(横地太郎元国)は、乳母と供に民家に隠れて、甲斐源氏の流れをくむ武田信虎を頼って甲斐に赴いたようです。
二俣城主だった二俣昌長や松井信薫らが、横地元国を擁して主家再興を計りましたが、お家再興には至りませんでした。
ただし、武田氏滅亡後、子孫は徳川家康の旗本になり明治を迎えたようです。

他にも横地一族と見られる武将としては、北条家にて雉岡城を任された横地忠春(横地左近忠春)や、八王子城の戦いでの重臣・横地吉信(横地監物丞)がおり、横地吉晴が北条氏滅亡後に井伊直政の重臣になっています。

なお、横地城での重臣だった、福井氏、坪井氏、鈴木氏は、横地に残っていたようです。
16代目を継いだ、横地藤丸(横地渋谷介)は、横地に戻って帰農したようで、先祖代々の地には戻れた模様です。

横地城

散策するには、なかなか、おもしろそうな城跡でして、東の城(本丸・金寿丸)は遺構が良好に残っているそうですが、予定外の訪問だったため、遠景撮影だけ行い、遠江・諏訪原城へ向かいました。
桜の名所にもなっているようで、毎年4月上旬には「桜まつり」が開催されるとの事です。


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交通アクセス

横地城への行き方・交通アクセスですが、JR東海道本線・菊川駅から、タクシーで15分となります。
横瀬神社の駐車場、一騎駆の西側にも駐車場があるなど、3箇所以上あるようですので、当方のオリジナル地図でも、一部の駐車場をポイントしておきます。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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