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横岡城の解説~大井川沿いにあった鶴見因幡守栄寿の居城

横岡城

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横岡城とは

横岡城(よこおかじょう) は、静岡県島田市字城之壇にある平山城で、別名は、志戸呂城、鶴見城、宇田城とも言います。
標高は120m、比高は30m~40mほどになります。
最初の築城としては、室町時代後期に、鶴見栄寿(鶴見因幡守栄寿)が、城之壇と呼ばれる大井川西岸の河岸段丘上に築いたようです。

横岡城

応永年間(1394年~1428年)の頃、遠州36六人衆のひとりである鶴見氏は、3代にわたり、掛川の鶴見氏館が、本拠だったようで、今川範氏に従っていました。
そして、斯波氏が遠江守護となると、応仁・文明の乱では、斯波義廉に寝返っており、掛川から横岡城へ移ったようです。
鶴見栄寿は、勝間田城の勝間田播磨守と共に、今川氏に属していた、松葉城主・河合蔵人成信(河井蔵人成信)を攻め滅ぼしたともあります。
そのため、今川氏親は、明応五年(1496年)に、斯波義廉へ反撃に出ると、横岡城の鶴見因幡守栄寿(つるみいんばのかみひさとし)と、勝間田城の勝間田播磨守を、攻撃しました。
今川氏親は、対岸の相賀村に「偽旗」立てて、陣を敷いたように見せかけ、横岡城の背後から、急襲したとされています。
<注釈> 落城年は、再検討する必要性があります。

長男・鶴見大蔵は、家臣に連れられて脱出し、一旦、大井川上流に逃れたようです。
その後、島田・天徳寺にて修行僧となり、その後、横岡の観勝寺の住職として、第3世・在仙太存大和尚(ざいせんたいそんだいおしょう)になりました。


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横岡城の「鬼門除け」として建立した横岡八幡神社が、麓に、今でもあります。
ただ、今川家に敗れると、廃城となったようで、城跡の多くは茶畑になっている模様です。

なお、豊臣秀吉小田原攻めのあと、徳川家康が江戸城に移封となり、駿府城に入った中村一氏と、掛川城山内一豊は、大井川の治水対策を行いました。
それまで、大井川は、諏訪原城の直下を流れていたようですが、牛尾山の東側を開削して、大井川の流れを、金谷の街の東側に、変えたようです。

あまり、良い写真が撮影できなかったのですが、城跡は私有地でもあることから、勝手な立入りは自粛致しまして、遠景撮影だけに留めました。

交通アクセス

横岡城への行き方ですが、大井川鉄道・大井川本線の門出駅から、徒歩約20分くらいの距離です。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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