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遠江・相良城の解説~3重櫓もあった遠江の壮大な城跡(相良藩)

相良城

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相良城とは

遠江・相良城(さがら-じょう)は、静岡県牧之原市相良にある平城(標高2.5m)で、別名は、相良陣屋とも言います。
もともと、相良(さがら)を治めた相良氏は、藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流で、近くの勝間田城の勝間田氏などと、同系とも推測され、相良牧に派遣され、平安時代末期から土着したようです。

相良城

伊東を治めた、伊東祐時とも親類と考えられます。
相良頼景は、相良館(相良古城)を本拠としましたが、この記事でご紹介する相良城からは、北に400mほど離れた場所(萩間川の対岸)だったようです。
相良頼景は、源頼朝に従い、鎌倉武士となりましたが、当初は平家側だったため、相良の地を失っていました。
その罪が許されて、1193年、新たに与えられたのが、九州の人吉と言う事になります。
相良頼景は弟の相良頼兼、一族の平原頼範らと多良木荘に入りました。


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一方で、遠江・相良荘には、相良頼景の長男・相良長頼が残っていましたが、源頼朝の命にて、人吉の矢瀬氏を滅ぼし、その後、相良氏は球磨郡を統一し、戦国時代まで人吉城を拠点としました。

ただ、鎌倉時代から戦国時代まで、遠江・相良館のほうが、どうなっていたのかは、調べても、よくわかりませんでした。
結構、大きな街で、海上交通も有効ですので、領主はいたはずなのですが・・。
遠江・高天神城を手に入れた武田勝頼は、1576年、相良館跡を改修して、相良古城を築きました。

江戸時代に入ると、徳川家康が鷹狩りで使用した「相良御殿」が置かれています。

相良藩

江戸時代中期の1710年、本多忠晴が1万5000石にて相良藩主となり、相良陣屋を築いた模様です。
その後、藩主は色々と変わりますが、1758年(宝暦8年)、1万石となった田沼意次が、相良藩主となりました。


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この田沼意次(たぬま-おきつぐ)は、将軍・徳川吉宗の側近に登用されると、わずか600石の旗本から大出世して行った幕臣です。
10代将軍・徳川家治の信任も得ると、明和4年(1767年)に側用人となり、2万石になった田沼意次は、遠江・相良城の築城許可を得て、工事を開始しました。
縄張り(設計)は、北条流軍学者・須藤治郎兵衛が担当しており、現在の相良町役場・相良町史料館が本丸跡で3重の天守もあったとされます。
小学校が二の丸跡、高校が三の丸跡で、三重櫓を中心に櫓は6基あり、三重の堀を廻らし、12年かけて、1780年に完成しました。

相良城

仙台河岸(せんだいがし)は海上交通の寄港地としても、整備されたようです。
その頃には、田沼意次は老中であり、5万7000石の大名となっています。
しかし、田沼意次は権勢をふるい、賄賂(わいろ)を受け取る政治を行ったため、政治腐敗が極まり、1786年、将軍・徳川家治の死去とともに失脚しました。


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新たに、松平定信が老中になると、田沼意次は蟄居・減封となり、1787年、田沼家は陸奥・下村藩1万石に減封となります。
そして、相良城は廃城とされ、1788年、徹底的に破壊されました。
堀も埋められ、瓦1枚も、残されなかったため、東海道は江戸に向かって、荷車がたくさん移動していたと言います。
今で言う、ダンプカーの列のような感じですかね?
その後、田沼意正が旧領に復帰すると、相良城跡には、相良陣屋が築かれました。

ちなみに、人吉城に移った相良氏も、明治維新まで人吉藩として、約700年の栄華を極めました。


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交通アクセス

相良城への交通アクセスですが、JR東海道本線の静岡駅から「しずてつジャストライン」(特急相良御前崎行き)バスの乗車し「相良営業所」バス停下車の徒歩10分となります。
クルマの場合には、牧之原市役所相良支所の無料駐車場を利用できます。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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