香川県

引田城と四宮光武~讃岐の寒川元隣がもがいた戦国時代も

引田城

引田城(ひけたじょう)は、香川県東かがわ市にある、標高86mの山城で、比高は80mで続日本100名城にも選ばれています。

最初の築城は不明ですが、667年に屋島城築城の際に阿倍比羅夫が率いた引田氏が狼煙台として築いたとする説もあります。
室町時代の末期である永正年間(1504年~1521年)頃には、昼寝城主・寒川元政の家臣である四宮右近が引田城主でした。

四宮と聞いて、信濃・更級郡四宮庄が出自の小笠原家臣かな?と感じましたが、ちょっと調べましたら、やはりそうでした。

四宮右近光匡の正しい名前は四宮光武(しのみや-みつたけ)と言います。





どうやら、四宮光武(四宮右近光匡、西宮右近)は、1504年に信濃から讃岐・寒川家に仕えたようです。
引田城の様子と共にご紹介いたします。

引田城

寒川家は細川家の被官として寒川郡を領した事から始まった小大名です。
1512年、主君・寒川元家(さんがわ-もといえ)は中国・朝鮮・琉球と交易を開始しており、勘合貿易に参加し大きな利益を得ていますので、先見の明もあったようです。
この海運を担ったのが、引田浦の引田海賊衆で、寒川氏は大内義興に属しました。

引田城からの展望

寒川元家の子・寒川元政(さんがわ-もとまさ)の頃には、1523年に安富盛方を撃破し、1526年には十河景滋との戦いで、香川氏や香西氏らの援軍を得て打ち破り、十河氏の援軍として来た三好元長を讃岐国境で追い返しています。
このように、戦上手な家柄でもあったようで、1532年、池内城を攻められますが、寒川家の家臣・鴨部源次が敵陣を急襲して十河一存に負傷させています。
この後、室町幕府管領・細川晴元の仲介で和睦が成立しますが、天文9年(1540年)には雨滝城主・安富盛方との戦いが激化しました。

引田城

そして、寒川元政は居城を池内城から昼寝城に移転しましたが、1562年、教興寺の戦いに参加しています。
戦国時代における畿内での最大規模の合戦として有名な教興寺の戦いでは、三好長慶の軍勢として、十河存保と香西元載の傘下に、安富盛方と共に加わっています。
そのため、このころまでに寒川氏は三好家に臣従していたようです。

引田城

寒川元政の死後は、寒川元隣(さんがわ-もとちか)が家督を継ぎましたが、居城を昼寝城から虎丸城に移し、昼寝城は弟・寒川光永に任せました。
しかし、1570年には、勝端城主の三好長治が引田城を攻撃し、四宮光武(四宮右近光匡)は所領を失っています。

引田城

引田城は、山城と言うよりも、断崖絶壁にある平山城もしくは、海城であり、瀬戸内海の播磨灘を見張るにはもってこいの城です。

引田城には三好長治の家臣で阿波・矢野城主の矢野国村(矢野駿河守)が入りましたが、この矢野国村(矢野駿河守国村)は、1579年に阿波・岩倉城主である三好康俊(三好式部少輔)に謀られて殺害されています。
また、1572年、寒川元政は敵対していた安富盛定の策略にハマり、主筋の三好長治とその重臣・篠原長房の命により虎丸城を譲渡し、昼寝城に退きました。
そして、虎丸城は安富盛定が入りました。

引田城

寒川三河守光長(寒川光永)は兄から昼寝城を任されていましたが、1575年、海部右近が攻めて落城したとあります。

引田城

なお、鳴門にある撫養城も、四宮加賀守が3500石で城主であったとありますが、引田城の四宮氏との関係は特定できずにいます。
ただし、この頃、四宮光武は阿南市の大潟城主になっていた模様です。
そして、江戸時代に四宮加賀守は阿南市に戻っていますので、四宮光武の子が四宮加賀守である可能性もあるのではないかと推測しております。
この、四宮加賀守は撫養城の記事にて少し詳しく掲載させて頂いております。

織田信長の死後、天正10年(1582年)8月、十河存保に属して長宗我部元親と戦いましたが、寒川元隣は中富川の戦いで討死しました。

引田城

寒川元隣の弟・寒川光永は、放浪の身となったようで各地を転々としたあと、出家して浄慶と号しました。
中富川の戦いで敗れた十河存保は、虎丸城に駆け込んでいます。

引田城

家督は寒川元隣の子・寒川光永(寒川七郎光永)が継いでいます。
寒川元隣の弟と同名ですが「七郎」が付く方が子となり、豊臣家の家臣に加わると、仙石秀久の部隊に配属されたようです。
1587年の戸次川の戦いにも、参じたとありますが、四宮光武の弟・四宮光利(乙井城主・四宮太郎左衛門光利)も、仙石秀久に仕えており、戦功を挙げたようです。

引田城

さて、引田城の話に戻しますが、1583年に、淡路から仙石秀久が入城して十河存保を救援するため一時本拠地としました。
1584年、長宗我部勢が現れて、引田表にて戦国秀久は敗れましたが、羽柴秀吉の四国平定後に再び仙石秀久が引田城に入りました。

引田城

引田城は南の郭、西の郭、東の郭、北の郭、丹後丸などから構成されています。
下記は本丸とされている石垣です。

引田城

至る所に石垣や櫓台跡が残っており、南の郭の中央に天主台とされる社が祀られていますが、主郭は明確ではないようです。

仙石秀久は讃岐22万石となって、聖通寺城(または高松城)に入ったあとは、戸次川の戦いで失脚し、替わった尾藤知宣も九州征伐の失態によって改易となっています。
そして、1595年に生駒親正が讃岐17万1800石となって引田城に入城しました。

自然石を積んだ野面積の石垣の多くは、生駒氏時代のものだと言います。

引田城

しかし、引田城では手狭だったのと、讃岐を治めるのには東に寄りすぎていたため、聖通寺城に移り、さらに讃岐・高松城の築城を開始することなります。

ただし、家臣を引田城には配置した模様で、1615年、一国一城令で廃城になるまで、引田城は健在だったと考えられています。(諸説あり)

1640年、生駒騒動(いこまそうどう)によって、高松藩主・生駒高俊が領地を没収され、出羽国由利郡に流罪となって矢島藩1万石となった際に、同行した家臣らの名前が記載されている「讃羽綴遺録」があります。
その中で、最初に家臣の名前が見られる重臣として、家老・四宮数馬とあります。
しかし、四宮数馬はまもなく暇を取った(家臣を辞めた)とも記述されています。
四宮数馬のことは、このくらいしか分かりませんが、引田城の四宮氏の一族の生き残りなのかも知れません。

引田城へのアクセス・行き方ですが、JR引田駅から歩くと徒歩20分で登城口となります。

引田城の登城口

登城口付近には、クルマを止めるスペースもありました。
場所は当方のオリジナル四国地図にてわかるようにしてありますが、港町で道は狭いです。

今回、南郭から北丸と推定される北郭まで行きましたが、尾根沿いは岩が露出しているガレ場のようになっています。

引田城

また、途中からは秋でもヒザくらいまで草が覆い茂っている道となっていました。
出発前の天気予報では雨だったため、登城は無理かな?と、考えて、トレッキングポールは自宅に残して出発したのですが、まぁ、無くても大きな問題はありませんでした。
しかし、ガレ場は滑りやすいので、ストックはあるに越したことはないと存じます。





なお、歩き回っていましたら、トイレに行きたくなったのと、風が強くなってきて雲行きが怪しくなったため、引田城は半分くらいの探索で下山致しました。
降りてレンタカーに乗り込むと、フロントガラスにポツポツと雨が当たり始めましたので、ギリギリでした。
日本100名城にも選ばれた引田城は、瀬戸内海の展望も良いところですので、麓から乗り物が設置されるなど整備されて、訪れやすくなると嬉しく存じます。
例えば、奥祖谷観光周遊モノレールのように、周遊でなくて良いので山頂付近まで麓から気軽に、さらにスリリングに登れる乗り物があれば、城目的以外の観光客も訪れるのにと感じました。

勝端城~戦国時代には四国で最も栄えた阿波の本拠地
虎丸城~三好勢が逃げ込んだ四国最後の砦
篠原長房~文武に優れ三好家を支えた高名な武将
阿波・木津城と篠原自遁の攻防~東条実光も
撫養城~阿波の入口にある防衛拠点と模擬天守
雨滝城と安富盛定~東讃守護代の没落
讃岐・高松城~天守復元に向けて整備が進む日本100名城
城めぐり用オリジナルGoogleマップ

この史跡への皆様の評価→
評価ポイント
5 based on 1 votes
攻略難易度
中級者向け
旧国名
讃岐
著者コメント
途中に案内が少ないので、麓で地図をスマホで撮影するなどして、ルートが分かるようにしておきましょう。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

0




皆様からのクチコミ情報

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


関連記事

  1. 丸亀城 丸亀城~高い石垣が見事な名城と生駒一正・山崎家治
  2. 讃岐・高松城 讃岐・高松城~天守復元に向けて整備が進む日本100名城
  3. 聖通寺城 聖通寺城(宇多津城)~瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島の展望も素晴らしい…
  4. 虎丸城 虎丸城~三好勢が逃げ込んだ四国最後の砦
  5. 十河城 十河城と十河城の戦い~十河城を訪ねて
  6. 雨滝城 雨滝城と安富盛定~東讃守護代の没落

カテゴリー

ピックアップ記事

  1. 大和・菅野城(菅野谷城)
  2. 古渡城
  3. 大光寺城
  4. 阿波・秋月城
  5. 日向・南郷城

城めぐり 2100城超えました

城めぐり
にほんブログ村 歴史ブログへ
PAGE TOP