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飯盛城(飯盛山城) 駐車場や道路状況など 続日本100名城

飯盛城(飯盛山城)

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飯盛城(飯盛山城)とは

河内・飯盛城(いいもり-じょう)は、飯盛山城ともよく呼ばれますが、大阪府大東市と四條畷市の飯盛山にある山城です。
標高は315.9m、比高は260mとなかなか堅固で、続日本100名城に選ばれており、国の史跡も目指しています。
織田信長の時代よりも早く「石垣」を豊富に用いた城跡として注目を浴びています。
最初の築城としては、佐々目憲法(僧正憲法)が南北朝時代に築いたともされますが、紀伊・飯盛山城の誤りかも知れません。
このように飯盛城も全国にあり、三河・飯盛城、筑前・飯盛城、肥前・飯盛城、佐嘉飯盛城とありますので、混同に注意が必要です。

1348年、四條畷の戦いでは、南朝勢約5000が飯盛山にて籠城したとあります。


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その後、戦国時代になり、畠山義堯が河内と山城の守護になると、河内守護代の木沢長政が飯盛山城の改修を行いました。

飯盛城(飯盛山城)

今回は中腹にある楠公寺までクルマ(レンタカー)で入り、そこから徒歩で飯盛山へ向かいしました。
ただ、道路は狭く、対向車が来たら厳しい、ガードレールも無い未舗装路であり、なおかつハイカーも歩いているので注意が必要でした。
道路状態も、良いとは言えず、小型車かオフロードバイクでないと厳しいです。
城跡出張では、ほんと、細い道に当たることも多いため、レンタカーも、一番小さいSクラスでお願いしていたのですが・・・。
何度も利用させて頂いているためか?、レンタカー会社さんが、気を利かして下さいまして、Sクラスではなく、大きなクルマになってしまい、少し、難儀しました。
下記は、楠公寺の入口でここから入って右手に駐車スペースがあります。

楠公寺の入口

下記は、楠公寺の駐車場の状況写真ですが、10台ほど止められるスペースになっていました。

楠公寺の駐車場

楠公寺は、旧飯盛山・妙法寺で、楠木正行の菩提寺となります。
楠木正行(くすのき-まさつら)は、楠木正成の嫡男で、亡父の遺志を継ぎ、南朝方としてこの飯盛山にて戦いました。

楠公寺

それから戦国時代になっても、河内を見下ろす飯盛山は重要な軍事拠点であり、1532年「飯盛城の戦い」となります。

実権を強めていた細川晴元の息がかかる木沢長政が、河内守護・畠山義堯(畠山義宣)から守護職を奪おうとしたため、畠山義堯は三好元長の一族である三好勝宗(三好一秀)の援軍を得て、河内・飯盛城を攻撃しました。
不利な状況に陥った木沢長政は、三好元長の協力もあり、摂津・河内・和泉の本願寺門徒を動かすと、畠山勢の背後を襲撃させ、三好勝宗は討死し、敗走する途中に畠山義堯は自刃しました。
細川晴元と対立していた三好元長も、10万の一揆勢に包囲されて自刃しました。
また、勢いをつけた本願寺宗徒は、石山本願寺に本拠を移し、一向一揆が活発になって行く転換期にもなりました。

飯盛城

その暴走した一向一揆を細川晴元も抑えられなくなると、亡き三好元長の子・三好長慶が仲介して和睦を斡旋します。
そして、摂津・越水城に入った三好長慶は、徐々に勢力を強めて、木沢長政に奪われていた畿内を狙います。
一方、木沢長政は、河内・飯盛城を、畠山義尭の弟・在氏に与えて、自らは大和・信貴山城を築いて勢威を広げました。


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1542年、三好長慶は摂津・芥川山城に入り、三好政長と遊佐長教らと木沢長政を、太平寺の戦いにて討ち取りました。
畠山高政の家臣である安見宗房が、私部城(交野城)から飯盛山城に移りました。
安見宗房は、策略を持って、萱振賢継を飯盛山城にて暗殺したり、畠山高政を河内守護に擁立すると、裏で操りました。
やがて、主君・畠山高政を紀伊国へと追いやると、三好長慶は畠山高政に味方したため、安見宗房は大和に逃れました。

飯盛城

こうして、畠山高政は河内・高屋城にて復帰しますが、これらの三好長慶の貢献に非常に驚き警戒したため、両者は対立するようになります。
そのため、畠山高政は、湯川直光を罷免して安見宗房を河内守護代とし飯盛山城に復帰させました。
これらの処遇に憤慨した三好長慶は、松永久秀らも動員して畠山高政の河内・高屋城を攻略し、安見宗房にも勝利すると、1560年、飯盛山城に入城して大規模な改修作業を実施し、三好氏の本拠地としました。
河内・高屋城には、河内平定にて功労があった弟・三好実休が入っています。

飯盛山城

しかし、三好長慶の弟で岸和田城十河一存が急死すると、畠山高政と六角義賢が反撃に出て、1562年、久米田の戦いにて三好実休が討死します。
教興寺の戦いでは三好勢が勝利を収めますが、1564年、三好長慶は弟・安宅冬康を飯盛山城に呼び出すると誅殺し、三好氏は内から崩壊しました。
同じ年に、三好長慶は飯盛山城にて死去。
以後、松永久秀と三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)があとを継いだ若年の三好義継を後見することになりました。
なお、三好長慶の死はすぐに公表されず、御体塚曲輪と言う城内に、3ヶ月間、仮埋葬されたあと、葬儀は2年後に行われたとされています。

飯盛山城

1568年、織田信長が室町幕府将軍である足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛すると、三好氏は織田家に降伏します。
そして、河内の南半分は河内・高屋城に入った畠山秋高に、河内の北半分(若江城)は三好義継に安堵されました。


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遊佐信教が、織田家寄りだった畠山秋高を自害させると、1574年、また、佐久間信盛細川藤孝筒井順慶明智光秀塙直政森長可らが若江城に入って攻撃します。
飯盛山城では三好康長、本願寺顕如らの抵抗もむなしく、河内・飯盛山は陥落し、萱振城、河内・高屋城も敗れました。
1575年、新堀城の十河一行が討死し、香西長信が捕縛されると、三好康長は松井友閑に仲介を頼んで降伏しています。
老臣・遊佐信教に関しては、その後の記録が無く死去したものと考えられています。

そして、織田信長は、河内・大和などの城の多くを破却しましたので、河内・飯盛山城も廃城になった模様です。

河内・飯盛山城からの展望

FM放送の鉄塔がある千畳敷は、最大の広さを誇る曲輪で、土塁や櫓台跡もあり、三好長慶の常御殿があったとされます。
下記は山頂にある、楠木正行の銅像ですが、逆光は、どうしようも無かったです。

楠木正行の銅像

主郭から北へは堀切の先に御体塚丸・三本松丸・北ノ丸などの曲輪が続きます。
御体塚丸の記念碑の下は、三好長慶の墓との伝承があるようですが、今回は時間の関係で、そこまでは行きませんでした。

飯盛城(飯盛山城)への交通アクセス

飯盛山城への交通アクセス・行き方ですが、電車の場合、JR四条畷駅を起点にして麓の四条畷神社などから登山口(ハイキングコース)があり約1時間40分です。
軽登山装備が良いです。
山頂には防空監視所もありました。
現在、飯盛城跡は国指定史跡への登録を目指しているそうです。

飯盛山の防空監視所

クルマの場合、上記でもご説明したとおり、阪奈道路から楠公寺(妙法寺)への未舗装・林道があり、楠公寺の近くに路上駐車となります。
ただ、未舗装で少し道路も荒れており、対向車が来るとOUTですので、大きな乗用車は困難です。
楠公寺から本丸までは徒歩10分くらいの距離です。
トイレはありますがかなり古いです。
約1km手前のキャンピィだいとう(大東市立野外活動センター)と言うキャンプ場のようなところに、自動車を止めた場合1日200円となります。
野外活動センターから楠公寺までは徒歩15分程度です。
道もわかりにくいので、当方のオリジナル地図もカーナビ代わりにご活用賜りますと幸いです。
あと、阪奈道路は、警察が交通取締りを行っている場合がありますので、ご注意を。


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続100名城スタンプが設置されている場所は、大東市立野外活動センター、四條畷市立歴史民族資料館、大東市立歴史民俗資料館の3箇所です。
このあと、信貴生駒スカイラインを抜けて、信貴山城へ向かいました。

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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