徳島県

勝端城【続日本100名城】戦国時代には四国で最も栄えた阿波の本拠地





勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞にある平城で、続日本100名城、国の史跡に指定されています。
かつて、阿波を支配するうえでの本拠地でもあったことから、近年は、発掘調査が盛んにおこなわれており、徐々に全容が少し判明しつつあります。
勝瑞城館跡(しょうずいじょうかんあと)のほか、阿波屋形、下屋形、勝瑞屋形とも呼ばれます。
発掘調査に並行して、史跡公園として整備も開始されています。

最初の築城は鎌倉時代ともされますが、1221年、承久の乱のあと、阿波守護になった小笠原長清が守護所を設けたのが始まりとも言います。
ただし、小笠原長清は本拠地の甲斐にいて、阿波には代理を派遣していたようです。





このように、勝端城は、四国の玄関口として、淡路国、讃岐国、そして阿波国の政治・経済・文化の中心地として栄えて行きました。
吉野川の南岸の自然堤防上にあり、東側には今切川、南側は湿地帯となっています。
阿波守護の居館、政庁として、城の構えは広大であり、地方都市しては他に類がないほど城下町が繁栄したようです。

その後、南北朝時代の1362年に、室町幕府の管領・細川清氏が、将軍・足利義詮より追放されて、南朝に属すと讃岐の白峰城に逃れて抵抗します。
この時、阿波・秋月城が本拠だった細川頼之は、室町幕府の命により細川清氏を討伐すると、四国、管領に任じられ、河野通朝も追討して四国を平定しました。
そして、東讃岐は細川頼之、西讃岐は弟の細川頼有、阿波は弟の細川詮春が領しました。
こうして、井隈庄と呼ばれていたこの地を、戦勝を記念し「勝瑞」と改名したと言われています。

勝端城

1363年、細川頼之は秋月城から勝瑞城に移ったとされます。
ただし、諸説あり、弟の細川詮春(そかわ-あきはる)が、入ったともされますが、この細川詮春の系統が、阿波・細川家を世襲して行きます。
細川頼之は、細川家の宗家であり、管領細川家(細川管領家・細川京兆家)として将軍近くで仕えました。

勝端城

7代城主・細川成之は、管領代として応仁の乱では8000を率いて上洛もしています。
細川成之は東山文化を代表する文化人で、公家、僧侶、学者、歌人、連歌師、書家、絵師、芸能人などの交遊もあっことから、京の文化が勝端城にももたらされ、文化都市としても発展しました。

応仁の乱のあと、子がいなかった管領・細川政元は、養子として関白・九条政基の子である細川澄之、阿波守護家から細川澄元、細川の野州家から細川高国と3人の養子を迎えます。
結果的に、この3人の養子は跡継ぎを争うことになり、細川澄元は細川高国との権力争いに敗れて、阿波に戻ると病没しました。
そして、1520年、勝端城の細川家は、細川澄元の子・細川晴元(ほそかわ-はるもと)が7歳で家督を継ぎます。
細川晴元の正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄、本願寺法主・本願寺顕如の義兄でもあります。

細川晴元は被官である三好元長の尽力もあり、徐々に勢力を盛り返していき、境を本拠とすると、勝瑞城の細川持隆はよく補佐しました。
こうして、1531年に、細川高国を追い込み自害させますが、阿波守護・細川持隆と家来の三好元長は方針を巡って対立するようになります。

勝瑞城

なお、細川持隆は小少将と言う絶世の美女におぼれ、防備を怠り酒池肉林の生活を続けていたともあります。

天文18年(1549年)、三好元長の嫡男・三好長慶に敗れた細川晴元が没落すると、1553年、三好長慶の弟・三好実休(三好義賢)によって細川持隆は見性寺にて殺害されました。

こうして、阿波・細川氏は滅亡し、勝端城には三好実休が入ると、小少将は三好実休の妻となり、大形殿と呼ばれています。
その三好実休は、細川氏を傀儡として阿波での実権を握りますが、1562年に和泉の久米田の戦いにて討死し、子の三好長治が勝瑞城の城主となっています。

細川氏の守護所は勝瑞城の西にある保久利院地福寺付近に「細川殿」と呼ばれる地名があり推定地とされています。
三好氏の居館は南西にある勝瑞館であったと推測され、発掘調査と公園整備が進められています。
大規模な濠によって区画されている複数の郭(くるわ)からなる、珍しい複郭式の平城(館跡)であることが推定されています。

勝端城

一方、大形殿(小少将)は、ますます妖艶さに磨きがかかり、三好家の家臣で、阿波・木津城主の篠原自遁と通じます。
また、上桜城主・篠原長房を攻め滅ぼした三好長治は、日夜酒宴にふけり勝瑞城での三好長治の信望が衰え、重臣たちも離れていきました。

1576年(天正4年)、阿波守護・細川持隆と小少将の子である細川真之は、三好長治の勝瑞城から出奔して自立を図ります。
そして、1577年に三好長治は細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢に勝瑞城を追われて、長原の地にて自刃しました。

これに反発した、三好越後守、矢野国村、河村左馬亮らは、三好氏の一門で讃岐・十河氏の十河存保(細川真之の異父弟)を擁立して、勝瑞城に迎えます。

勝瑞城

阿波を狙っていた土佐の長宗我部元親は、十河存保の後ろ盾であった織田信長が、1582年、本能寺の変で横死すると阿波へ侵攻します。
十河存保は、中富川の戦いで敗れて、阿波統治の本拠・勝瑞城から退却し、讃岐・虎丸城へ撤退しました。

そして、1582年(天正10年)9月21日、防御の弱い勝端城は廃城となり、支城の板西城、姫田城、西条城なども使われなくなっています。

長宗我部勢は、阿波・一宮城を改修し、織田家の実権を握った羽柴秀吉に備えました。

なお、破却された勝瑞城の石垣などは、のち、蜂須賀家政によって徳島城が築城された際に用いられたと伝わります。
城下にあった寺院の多くも徳島城下に移転し町は衰退しました。

勝端城の本丸跡にある見性寺は、三好家の菩提寺となっておりますが、江戸中期にここに移転してきたものとなります。

見性寺

境内には、三好之長・三好元長・三好義賢(三好実休)・三好長治らの墓が並んでいました。

三好一族の墓

左から、三好之長、三好元長、三好義賢、三好長治の墓と言う事で、見性寺がここにできた際に、散らばっていたお墓を移してまとめたらしいです。

下記は勝端義冢の碑となります。

勝端義冢の碑

義冢(ぎちょう)と言うのは、人物の名前ではなく、一般的に言う義塚、すなわち、弔う縁者のいない人の墓=無名戦士の墓となります。
江戸時代中期の天明3年(1783年)に、勝瑞村の庄屋・岩佐谷助(いわさやすけ)が建立したもので、撰文は徳島藩儒の那波魯堂(なわろどう)となっています。
なんでも、堤防工事をした際に、たくさんの遺骨が出たそうで、無縁仏の供養のために墓を築造したとあるそうです。

なお、勝端城跡は、只今、発掘調査が行われては、貴重な遺構が見つかり、国指定が追加されるなどし、並行して公園整備が行われています。

勝端城跡

クルマで念のため、色々と近くを周ってみましたが工事中で、私が実際に足を入れることができたのは、この見性寺がある本丸跡だけでした。
整備が完了しますと、かなり広い城域を見学することができるようになると存じますので、将来が楽しみなところでもあります。
しかし、数年単位では工事は終わらないと推測致します。

さて、勝端城跡への行き方・アクセスですが、当方のオリジナル四国史跡地図にて、無料駐車場がある場所を分かるようにしています。
その5台ほどの駐車場から、見性寺がある本丸跡は隣接しており、本丸跡を見るだけでしたら、見学所要時間は15分といったところです。
撫養城徳島城とセットでどうぞ。

三好長慶~戦国時代最初の天下人は戦と和睦の連続だった?
三好実休(三好義賢)~日本で初めて鉄砲で撃たれて討死した大将?
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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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