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下田城 清水康英【下田城の戦い】北条水軍対豊臣水軍

伊豆・下田城

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伊豆・下田城とは

場所 : 伊豆国
形態 : 平山城 (海城)
天守 : 天守台と伝わる郭有り
遺構 : 空掘、堀切、障子堀、土塁、郭
築城年 : 戦国時代1588年
指定文化財 : なし

伊豆・下田城(しもだ-じょう)は、静岡県下田市にある平山城で、標高は60mほど。
なお、太平洋・下田湾に面しており、水軍の基地でもあったことから、海城と分類される場合もあり、別名は鵜嶋城とも言う。
最初の築城は不明ですが、戦国時代の1588年に、小田原城主・北条氏直の命にて築城したとあり、当初は玉縄衆・朝比奈孫太郎が下田城に入った。

下田城

豊臣秀吉小田原攻めの際に、北条氏政と北条氏直らは小田原城で最終的な軍議を開くと「小田原城での城籠」を決定する。
この方針によって小田原城に兵力を結集させ、重要度が低い支城は放棄か、少数の城番を残すのみとなる。
伊豆・駿河方面の防衛最前線は、山中城韮山城、そして伊豆南端の下田城に決定した。


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その為、西伊豆の大型水軍基地である長浜城・高谷城・丸山城などはほぼ放棄されて、獅子浜城・安良里城・田子城には僅かな陸上部隊を配備する事になり、北条水軍は全て下田城に集められた。

獅子浜城主は大石直久(関宿城の城代)が1200。
安良里城は三浦茂信と梶原備前守、田子城は山本常任(山本正次)。
下田城主は清水康英、援将として江戸朝忠・吉良氏広、梶原景宗ら総勢2800。


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しかし、前年から派遣されていた梶原景宗(かじわら-かげむね)は、豊臣水軍と戦うには陸上交通が不便な下田城では籠城するのは補給も困難で不利であり、豊臣水軍が下田城を通り過ぎて小田原城沖に出てしまっては、防衛拠点としての意味もないと、城主・清水康英(しみず-やすひで)とも対立した。

そのため、2月下旬に梶原景宗配下の水軍は、小田原の河口と、三浦・油壺(荒井城)へ移動してしまったが、北条氏政・北条氏直は2月28日に許可を出している。
しかし、下田城を守る船と兵数は、大幅に減少してしまう。

下田城の碑
※写真は下田城の碑

2月27日に清水港に終結した豊臣水軍は関船・小早・荷船で構成された軍船1000隻、総勢2万名と言う水軍も桁違いの大軍であり、その内訳は下記の通り。

九鬼嘉隆(鳥羽城主、1500)、加藤嘉明(知志城主、600)、菅達長(淡路の客将、230)、脇坂安治(洲本城主、1300)、来島通総(来島城主、500)、長宗我部元親(岡豊城主、2500)、羽柴秀長(大和郡山城主、1500)、宇喜多秀家(岡山城主、1000)、毛利輝元(安芸・吉田城主、毛利水軍5000)、徳川家康勢数千。
長宗我部元親の家臣・池六右衛門などは、18端帆で200挺艪、さらに大砲2門、鉄砲200挺を装備した大型の安宅船も用意していた。

3月4日、徳川勢船大将・小浜景隆(おはま-かげたか)、向井兵庫(むかい-ひょうご)、本多重次が西伊豆の沿岸を偵察。
小浜景隆と向井兵庫は旧武田水軍の出身で、西伊豆の海にも詳しい。


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西伊豆が手薄とみた豊臣水軍の先鋒・徳川勢は、3月上旬から西伊豆の城砦や入り江の攻略を開始。
小浜景隆は土肥・高谷城、八木沢・丸山城を占拠し、向井兵庫と本多重次は安良里城と田子城を陥落させた。
さらに他の水軍も、松崎、雲見、妻良、子浦の港を占拠し上陸。

子浦に上陸した豊臣勢が陸路にて下田城を目指して進軍すると、北条勢は一矢を報いるため、伊豆ヶ崎岩殿(南伊豆町)で抵抗し、岩殿寺砦の守将・清水英吉(清水淡路守英吉)が死守した。
伊豆衆・小関加兵衛と村田久兵衛の活躍もあり、豊臣勢は岩殿寺砦を落せず、退却している。

下田城の図

下田城の戦い

安良里城と田子城も落とし、西伊豆を占拠した豊臣水軍は石廊崎を周って、4月1日には伊豆・下田城の到達し海上から包囲。
また、加藤嘉明らの水軍は下田湾から、下田城の対岸にある外ヶ浜に上陸し、下田の民家などを焼き払い、武山出丸を占領した。
そして、軍船から大砲を降ろして下田城を見下ろす武山に配備して威嚇攻撃を行い、上陸した豊臣勢は下田城の大手門に押し寄せた。
※武山は下田の道の駅の北側の山

下田城から下田の街並みを望む

しかし、北条家の中でも名将として名高い清水康英が指揮する下田城は難攻不落であり、清水英吉(清水淡路守英吉、清水康英の弟)と子の清水能登守、伊豆衆同心・雲見の高橋丹波守とその一族左近・六郎佐衛門・縫殿助・助三郎、子浦の八木和泉守、妻良の村田新左衛門、小関加兵衛、江戸朝忠(江戸攝津守朝忠)、検使・高橋郷左衛門らは僅か下田城の城兵は僅か600であったが強固に籠城した。

下田城のお茶ヶ崎展望台から撮影したパノラマ写真

3月29日には山中城が落城し、箱根の豊臣勢は4月2日に小田原城へ押し寄せたため、豊臣水軍も急ぎ小田原城を目指せとの命が下り、長宗我部元親の2500だけが下田城の包囲に残され、残りは小田原城沖に展開した。

なお、長宗我部元親は海上からも大砲で攻撃するなどし、北条水軍(海賊)の船も多くが破壊され、4月7日には江戸朝忠の叔父・江戸満頼が山下郭にて討死するなど苦戦を強いられる。

そして、4月20日、豊臣秀吉の使者として脇坂安治と安国寺恵瓊が下田城へ矢文を送り、清水康英に降伏を勧告。
清水康英は残された城兵の助命のため降伏を決意し、三か条の起請文を交わすと4月23日に下田城を開城した。

清水康英らは当初、鎌倉の寺に入る予定であったが、河津山中の林際寺に退去している。

下田城の馬場ヶ崎展望台から撮影

清水康英(しみず-やすひで)

清水氏は、北条家の始祖・北条早雲に従い伊豆入国した家臣である清水綱吉の子で、元々は加納矢崎城の城主であり、北条氏康の傅役も務めた重臣である。

下田城は玉縄衆・朝比奈孫太郎が城主でしたが、1588年に伊豆郡代・清水康英が城主として入り整備・改修された。

下田城の切通し

上記は鋭い岩盤堀切と言うか、切通しに感じます。
門や木橋があったのかも知れませんね。

下田城の空堀の説明

下田湾に突き出た円形状の鵜島(うじま)と呼ばれる半島に位置しており、下田城は1552年頃に北条氏康の命を受けた笠原能登守が築城したとされる。

下田城のお茶ヶ崎展望台から撮影

一番高い主郭は標高70mあり、海に向かって三方に延びた尾根を郭とし、最も重要な船溜を抱え込む縄張りになっている。
上記は出曲輪であるお茶ヶ崎からの展望。

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空堀は北条流築城術である畝堀であり、堅固な防御だ。

下田城の空堀

上記は障子堀のようですが、夏で草が生い茂っており、良くわかりません。畝堀もなかなか見ごたえがある。
小田原攻めのあと、下田城には5000石にて戸田忠次が入城した。

下田城の天守閣(本丸)

清水康英は菩提寺である三養院(河津町)(伊豆・清水氏館)に入ったが1591年に没した。

なお、清水康英の嫡男・清水新七郎は1569年の蒲原城の戦いで武田勢と戦って討死していたが、次男・清水政勝(長久保城主・新田金山城主)は小田原城に籠城し、徳川家臣・阿部正吉とその配下・戸沢善右衛門らとの激戦を北条氏政から賞賛された。
北条滅亡後は浪人したようだが、1600年、60歳の頃、関ヶ原の戦いのあと結城秀康の家臣として300石で召し抱えられた。
その後、結城秀康が北ノ庄城に移ると福井藩士として1800石となり、1604年に隠居すると1616年4月17日に死去した。

下田城へのアクセス

下田城は防御的にはなかなか考えられているなと言う印象を持つ城跡だ。


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ペリー提督黒船などに関連して、開国記念碑や下岡蓮杖顕彰碑などもある下田城(下田公園)の無料駐車場は、下記の地図ポイント地点にて行き方を検討して頂きたい。
ただし、釣り客なども車を止めており、平日でも朝から満車気味なため、止められなかった時には、下田水族館の駐車場(無料)を拝借すると良いかもしれない。

あと、下田ロープウェイの近くに「下田城・天守」があるが、これは戦国時代の下田城とは関係ない。

下田城・天守

この記事は戦国武将列伝Ωの記事を移設・再編集したものとなります。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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