茨城県

常陸・羽黒山城の解説 春日顕国

羽黒山城

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常陸・羽黒山城

常陸・羽黒山城は、茨城県笠間市福原の標高363m、比高170mほどの羽黒山に築かれた山城で、城域は6つの主要郭にて構成されており巨大なようです。
羽黒山二所神社があるのですが、そこが本丸ともされています。
最初の築城は不明でして、一説によると、1055年頃の前九年の役の際に、源義家が築いたとも言われています。

南北朝時代には、常陸国司となった春日顕国が羽黒山城に入りました。
春日顕国(かすが-あきくに)は、南北朝時代の公家で、南朝方の武将として北畠親房北畠顕家の下で活躍しました。


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陸奥守鎮守大将軍・北畠顕家に従って関東に下向すると、1335年、北朝方の下野・小山城を多田貞綱と共に攻撃しています。
また、茂木城の茂木知貞とも攻防を繰り返しましたので、その頃に、羽黒山城を拠点としていたのかも知れません。

その頃、南朝は瓜連城に大掾高幹・長岡宣政ら、那珂通辰ら、川野辺氏を従えた楠木正成の代官・楠木正家、公卿の広橋経泰らが、北朝方の佐竹氏らと争いっており、春日顕国は下野・宇都宮城の宇都宮氏と対峙していたようです。

北畠顕家が石津の戦いにて若くして亡くなると、その父・北畠親房の幕僚となって、小田治久の常陸・小田城に入りました。

延元4年/暦応2年(1339年)2月には、矢木岡城、益子古城、上三川城、下野・箕輪城を攻略しています。
そして、一時、常陸・中郡城(常陸・橋本城?)を落とすと滞在しましたが、足利尊氏の重臣・高師冬が反撃に出ました。

小田城の小田治久が北朝に寝返ると、北畠親房は関宗祐・関宗政親子が籠城する関城に入ります。
このとき、春日顕国は興良親王を奉じて下妻政泰の常陸・大宝城に移っています。


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しかし興国4年/康永2年(1343年)、大宝城と常陸・関城は落城し、北畠親房は吉野に帰還しました。
春日顕国は関東に残って再び挙兵すると、竜ケ崎の馴馬城(馴馬沼田城)を占拠して籠城します。
しかし、北朝方の宍戸朝里の攻撃を受けて落城し、春日顕国は甥ら一族とと共に捕縛・処刑されました。
首級は京都に送られたとされています。

戦国時代に入り、1505年には、佐竹義舜に叛いて、白河小峰城の結城政朝・結城顕頼と結んだ大塚綱久(大塚掃部助綱久)が、羽黒山城にいたとされます。

羽黒山城

大塚綱久のあと三代に渡って大塚氏が羽黒山城を治めました。
しかし、永禄7年(1564年)、大塚為久のとき、佐竹氏に攻められ落城したようです。
その後、大塚為久は小峰義親のもとに逃れたようで、1578年、陸奥石川氏の一族である浅川城を攻攻撃した陣にて、弓で射られ、討死したとあります。

1579年、佐竹義重の次男・佐竹義広を養子に迎えた、小峰義親は小峰義広(蘆名義広)の後見人となり、常陸・羽黒山城も佐竹氏に掌握された模様です。

その後、笠間城主・笠間幹綱の甥が羽黒に住んで根小屋殿と呼ばれているため、この羽黒山城の城主であったと言われています。


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羽黒山城で色々と調べますと、会津の蘆名盛氏が築いた「向羽黒山城」(続日本100名城)がたくさん出てきて、どうもいけません。
それだけでなく、福島にも陸奥・羽黒山城があるので、ややっこしいです。

羽黒山城への交通アクセス・行き方ですが、西側の麓にある未舗装の農道の先に、駐車スペースがあるようです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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