長久保城(ながくぼじょう)は、静岡県の沼津市と裾野市の間にある平山城で、標高90m、比高は20mとなる。
住所は、静岡県駿東郡長泉町下長窪。
鎌倉時代に竹下孫八左衛門なる武将が最初に築城したとも伝わるが、一般的には築城者と築城年は不明とされる。
1439年に関東で起こった永享の乱の際、大友親頼の3男・長久保親政が今川家の家臣として、駿東郡長久保を所領としているので、この時にある程度改修もされた可能性がある。
1482年には、葛山氏が沼津郷へ侵攻するため、長久保城を拠点としている。
1537年には、小田原城主・北条氏綱が駿東・富士進攻を行い、今川家が築いた古塁の跡を改修して、長久保城にしたと伝わる。
1545年7月下旬、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通し、北条氏綱(北條氏綱)に奪われていた東駿河に侵攻。(第2次河東一乱)
この時、北条勢の吉原城し自落し、北条幻庵(北條幻庵)が守る長久保城を攻撃したため、北条氏康は駿河に急行した。
そこを、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏が大軍を持って9月26日に北条綱成が守る河越城を包囲し、北条氏康(北條氏康)は東西から攻撃を受けて、絶対的なピンチに陥いる。
そのため、北条氏康(北條氏康)は長久保城を明け渡す条件にて、武田信玄を仲介して今川家と10月下旬に停戦。
11月初旬に太原雪斎と誓詞を交して、北条氏康は河越城へと転戦した。
その後、長久保城は再び北条家の支配となるも、元亀年間(1570年~1573年)から1582年までは、1571年に深沢城の戦いで勝利した武田信玄・武田勝頼が長久保城や沼津・三枚橋城を領有している。
1582年、武田滅亡後は徳川家康が支配下となり、松平家忠が修築。その後の長久保城主としては牧野康成の名が見受けられる。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、さて、豊臣秀吉が長久保城に入り、これから攻撃する山中城などの視察に出ている。
関東に徳川家康が移封されると、長久保城は中村一氏の領地となり、弟・中村一栄が沼津城主(三枚橋城主)となっているが、1600年、関ヶ原の戦いのあと1604年頃に長久保城はその役割を終えた。
現在の長久保城は、城山の削土や土地改良などで大きく改変されてしまっている。
上記は長久保城から望む富士山。
城山神社境内の土塁と、北小学校の周辺に三の丸の遺構が残るのみになっている。
なお、長久保城は国道246号のバイパスにて、三の丸方面と分断されている。
上記は長久保城の駐車場。
長久保城への交通アクセス・行き方としては、JR御殿場線・長泉なめり駅から歩くと950m、約15分。
長久保城の公園駐車場は下記の地図ポイント地点となる。
国道246号からは直接道路が繋がっていないので、地図の縮尺を変えて、ご確認願いたい。
城山の交差点からトイザらスの方に曲がって、グルッと回り込むと良いだろう。
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