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武蔵・渋谷城とは
渋谷城(しぶやじょう)は東京都渋谷区渋谷にある平城です。
渋谷川へと降りる傾斜地の上にあったようで、別名は金王丸城となります。
かつては付近に湧き水も出て、水も豊かな地だった模様です。
最初の築城としては下記のような感じです。
平安時代後期の武将である秩父重綱の弟に秩父基家がいました。
1083年、奥州・安倍一族である清原家衡・清原武衡らを出羽・金沢柵の戦いにて勝利した源義家ですが、その郎党に秩父重綱の弟・秩父基家がいたようです。
そして、戦功があったことから、秩父基家は武蔵・河崎荘(神奈川県川崎市)の所領を与えら、河崎基家(かわさき-もといえ)と称しました。
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最初は、鶴見川の流域である小机郷を開発したため、小机六郎(小机基家)とも呼ばれます。
その後、鶴見川の河口と多摩川の河口にある湿地部を開発したようで、そのため川の先(河崎)と言う名を称した模様です。
河崎基家(河崎冠者)の居館跡伝承地として、河崎氏館跡が川崎駅近くにあります。
また、現在の東京・渋谷の地を攻略したのか、もともと所領だったのかは不明ですが、河崎基家の子である渋谷重家が1092年に金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)を創建しました。
恐らくは、この金王八幡宮を建てた前後に、近所に渋谷城(渋谷館)も築いたものと推測されます。
ただし、河崎基家は、1053年の前九年の役での戦功にて、河崎よりも先に武蔵国豊島郡谷盛庄を与えられていた可能性もありますが、詳細は不明です。
その場合、1053年頃にはすでに渋谷城(渋谷館)があり、のち1092年に金王八幡宮を建てたとも考えられます。
河崎重家の子・河崎重国も、渋谷城の近くに河崎庄司郎館を設けました。
その河崎重国の代になると相模国高座郡渋谷庄を与えられて「渋谷庄司」を称して、渋谷氏となり渋谷重国と改名し、相模・早川城を築きました。
渋谷の地名の由来ですが、谷と森であったため、古くから谷森(やもり)と呼ばれており、上記の通り平安時代には谷盛庄(やもりのしょう)と言うのが地名でした。
渋谷重国が存在した1173年の記録でも、現在の渋谷は谷盛庄とあり、渋谷の名前は使われていなかったようです。
谷盛庄から1161年頃に相模・渋谷庄を本拠とし、広大な所領を得た渋谷重国は、半国以上を支配した大名クラスの権力者です。
そのため、谷盛庄はいわば、渋谷氏の発祥の地でもあることから、渋谷さんがいたところとなり、渋谷(しぶや)と言う地名に代わったのではと推測致します。
さて、渋谷重国は、源義朝に味方して敗れ、逃れた近江源氏の佐々木秀義を相模・渋谷にて20年も保護しました。
その間に、佐々木秀義の子たちは成長し、佐々木太郎定綱・佐々木次郎経高・佐々木三郎盛綱・佐々木四郎高綱となって、源頼朝の旗揚げに最初から貢献することになります。
渋谷重国は、1180年、源頼朝挙兵時には、平家の大庭景親に属して石橋山の戦いに参じましたが、佐々木氏の口添えもあり、のち子の渋谷高重と共に、源頼朝に臣従しました。
渋谷金王丸
渋谷城の別名にもなっている金王丸(こんのうまる)に触れたいと存じます。
諸説ありますが、渋谷金王丸は、河崎基家(小机六郎)の次男とされます。
それとは別に、1141年に渋谷重家(河崎重家)が子がないのを現在の金王八幡社に祈願すると、金王丸が生またとあります。
となると、渋谷重国の兄弟と言う事になります。
1156年、保元の乱で、渋谷金王丸は源義朝に従って先陣を務めました。
源義朝が暗殺された際に、愛妾である常盤御前に伝えた郎党に金王丸がいます。
この渋谷金王丸常光が、渋谷城主になっていた時期があったため、金王丸城とも呼ばれ、現在、金王八幡社もあるのでしょう。
その後の渋谷金王丸に関してはよくわかっていませんが、武蔵国児玉郡誌では、金王丸は児玉党である塩谷重家の養子になったともありますが、ほどなく亡くなったようです。
1189年、藤原泰衡討伐のおり、源頼朝は渋谷高重の館(河崎庄司郎館)に立ち寄り、渋谷城にもなっている八幡宮に太刀を奉納しました。
このとき、金王丸御影堂に親しく参拝し、父・源義朝に仕えた金王丸の誠忠を偲び、その名を後世に残すべしと厳命したと言います。
そのため、金王八幡宮の境内には、現在も金王丸御影堂があります。
鎌倉時代、和田の乱にて渋谷氏は大きな痛手を受けて所領の大くは没収されました。
ただし、武蔵・渋谷城の渋谷氏は細々と残ったのか、戦国時代までいたようですが、1524年に小田原城主・北条氏綱の軍勢が江戸城を攻略したさいに、渋谷城は炎上し、武蔵・渋谷氏は滅んだとされます。
現在の渋谷城跡としては、前述の金王八幡宮が残るのみです。
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江戸時代に入ると、金王丸を題材にした謡曲・浄瑠璃・歌舞伎・義太夫などの芸能・文芸作品が流行し、渋谷の金王八幡宮は江戸庶民の遊興地として賑わったと言います。
現在の社殿と神門は、徳川家光が世継にと決定した際に、乳母ろ春日局と養育役の青山忠俊が、報恩のため造営した由緒ある神社で、初詣の参拝客も多いです。
ただし、金王八幡宮の西側は、渋谷川から1段高い場所となっており、城があったと容易に想像もできます。
また、金王八幡宮の本殿左側に「渋谷城・砦の石」と伝わる石塊が展示されています。
渋谷城跡への交通アクセス・行き方ですが、JR・東急・営団地下鉄各線の渋谷駅から徒歩5分~10分(駅の出口により距離が異なる)となります。
駐車場はありませんが、近所にコインパーキングなどはあります。
当方の日本全国のお城マップにて、跡地をポイントしておきます。
・河崎庄司郎館(妹尾氏館) 東京の渋谷駅近くにある屋敷跡
・早川城 渋谷氏・渋谷高重・渋谷光重の栄華
・渋谷氏館(渋谷氏長後居跡)の解説~相模・渋谷荘にある渋谷氏の舘跡?
・相模・大谷館 (上浜田中世建築遺構群・浜田歴史公園) 相模・上浜田館跡(上浜田砦)
・牛込城の解説~江戸・神楽坂にあった牛込勝行の城跡
・星ヶ岡城のちょこっと解説~よくわかっていない永田町の城跡
・関東や神奈川県の城跡などのオリジナル地図
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